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2024-05-06-Mon 19:44:07 │EDIT
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2014-08-30-Sat 03:38:06 │EDIT
夏休みの思い出シリーズ。




特に本を読んだわけでも勉強したわけでもない、創作をするでも楽器を練習するでもない、ただただ怠惰で小規模な日々。
SFに浸る風を見せたのも一瞬だけ。


漠然と生きるとか死ぬとかそういうことを想像して、その途方も無さに言葉を失うほど繊細な神経は持ち合わせておらず、自分が死ぬシーンに自分は居合わせられないという当然の事実ばかり何度も再認識するに至る。
ハイデガーではないけれど、死は身近だし、距離が掴めないとはいえ必ず訪れるものだし、固有であったり確実であったりする。言ってしまえばいつ死ぬのかわからないし、個人的には1秒後の意識の持続だって何者にも保証されていないではないかというようにすら思っている。


例えば実家でお墓参りに行った時、自分が拝んだ祖父母の背面にピカピカ光る真新しいお墓ができていたことに気付く。
そのお墓にはサッカーボールの形をした石が脇にあしらわれていて、話を聞くと、父の同級生だかひとつ違い程度の方、のお子さん、のものであるとのこと。つまるところ自分とそう歳は変わらない。20歳を迎えたばかりの頃合いに亡くなったと聞く。


例えば車を運転する機会を得る。ほぼ1年ぶりの運転で、よろめき、間違い、数度事故の危険も感じた。クラクションも鳴らされた。幸いなことに身体も車体も無傷で済んだけれど。
運転席から歩道の歩行者の横を追い越していく感覚が一番慣れなかった。自分の側でこれだけ容易に相手を跳ね飛ばし轢いてしまい得るのである。また、翻って自分もまたそのように容易く接触され得るのである。どうしてこういったある種無茶が制御されていられるのだろうかと疑問ですらあった。それを成しているのはひとえに、人を害してはならないという意識と道路交通法による罰則の存在なのではないか。道徳の力、法の威力は偉大であると思った。


車とは違うにしてもこの頃似たような違和感を電車にも覚える。どうしてあれらは人が飛び降りずに済んでいるのだろうとたびたび以前より気になってはいたのだけれども。
簡単な話である、危険予測である、列車が来るところに飛び込んでしまってダメージを負うのは必然だし痛いのは嫌だし他人に迷惑を与えることは避けるべきである、という予測が簡単に瞬時に導き出されるから、健常者はプラットフォームから足を踏み外すことが無い。
ところで私は、そのような「当然」「そうである」が大の苦手で、自殺未遂を擁護するわけではないが、またもっと頻繁に接触事故が起こるべしなどとのたまうつもりも毛頭無いが、しかし、そういった飛び込みのような事態を全くあり得ない事態として頭から除外してしまうことに対して、それはいかがなものであろうか、と思ってしまう。


今夏、家族で旅行に行った先にひとつの橋があった。
渓谷にかかる小さい細いしかし高い橋であり、直下には沢が流れていた。
その欄干に添えられていた花束の意味が、私には測りかねた。


なんだかんだで自殺を図ったことは無い。ありそうで無い。体質上自傷には慣れているがリストカット経験は無い。引き籠るどころか保健室登校をする度胸すら無かった人間にそんな真似はどうせできないのだろうとは思う。生傷の回復速度だけは異様に速い。
死んでしまうような心地、というものと、死そのものとはワケが違うにしても、自分は随分とのうのうと生きているものである。


今夏唯一読んだ本が神林の『死して咲く花、実のある夢』だったりするのは、ここまで来るとどこか暗示めいて見える。
死後の世界は信じていないけれど、生前の情報を全て白紙にされて意識が蘇るのであれば、この世の全ての「あなた」が「わたし」にもなり得るのではと妄想してみたりもする。
個々人の意識が一つの大きなものに還元されるのであれば、それはむしろ『ハーモニー』寄りだよなあという気もする。あれだってほとんど死んでるようなものでは。


いわゆる自分が生きる意味のようなものが、ただ営利的なものに置き換えられるようであれば、大した意味は無いよな、と、なんとなく思う。
生きる意味はリアルタイムに見出されず、後になってから誰かが、その者の生きた意味を与えるに過ぎないのかもしれない。
私が生きている意味と死んだ際の意味を、無意識のうちに天秤にかけて、そして無意識のうちに死を遠ざけているだけなのかもしれないと考えると、少し恐ろしい。




自己とか自我とかいう話を中心にしている身としてそんな感じのことを考えていたりしました。
ぶっちゃけなんも考えてない。

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2014-06-28-Sat 01:27:34 │EDIT
時々、どうして自分みたいなゴミが生きているんだろうと疑問に思うことがある。



時々というと語弊があるのかもしれない。この感覚は自分のあらゆる意識の遡り得る根底に横たわっていてそれ以上先に進めないようなある種ひとつの基盤を形成していて、要するにこれは、時折訪れる感覚というよりは、元々ニュートラルに本性的にこのように感じていて、普段は日々の雑多な出来事に覆われて見えなくなっているだけで、カモフラージュが剥がれて隙間が覗くごとにこういった考えに落ち込むことになる、と形容したほうが恐らく正しい。
壁の塗装が剥げるのと壁に落書きをされるのと、見た目に大差無いように思われることがあるようなもので、一般的にあまり良い気がしないという意味において、ハタから見ているぶんには何も変わるところが無いので、まあ自分以外にとってはどうでもいい区別ではある。


自分は本質的に無価値であると長らく感じていて、それは何もニヒリズム的厭世だとかそういうものではなく単にこの最も卑近にして無能かつ無様な人間のことが嫌いで仕方が無いというそれだけのことで、具体的には小5で転校した時に学級に全く馴染めなかったあたりからその兆候があったような気がするがそれはさておき、まあこれが何をやらせても全く人並みにすらこなすことができずろくに笑いもせず人と交流もせず外で遊ぶこともしなければ内で勉強したり本を読んだりするといったようなこともなく、ただ阿呆のようにぼうっと呆けて日々を過ごしていた子供時代、周囲の充実した元気で有能な級友を眺めて幾度となく劣等感に駆られていたことを思い出す。最初は、あるいは現在でもそうなのかもしれないが、僻みだったのだろうと思う、どうしてあいつらばかり成功して自分だけが駄目なのだろうと。それが次第にいつの間に納得のために自分に言い聞かせていた、お前が駄目なのはそりゃあ当然だろうそういう程度の奴なのだからと。
いつの間にと言ったが実は契機は明確に覚えているしそれを過度にブーストさせたエピソードもきちんと記憶しているのだがどうにも情けないというかみっともないしょうもない話なので記述は避ける。広義の中二病に分類される類の内容なのかもしれない。後遺症が酷いが。
結果として高校時代に作った友人の人数がマイナス3人というスコアに落ち着き(中学時代の知人に縁を切られたことのほうが多かった)、勉学やらなんやらおよそ成功というか青春というかプラスに働く内容が残らなかったあたりで明確に自分の無価値を悟った。あるいは何も上手くいく気配がしなかったので最初から諦めていたというほうが正しいのかもしれない。唯一部活でそこそこ結果が残ったので自殺せずに済んだのではと今にして思う。もっとも保健室登校すらせず3年間を通じて遅刻欠席が1日のみという謎の記録も残っているので校舎の窓からダイブしたり手首に刃物を走らせたりといった勇敢な真似ができるほどの度胸があったとも到底思えないが。もちろんその臆病のおかげでここまで生き延びているとも言える。否定はしないしできないし死ねばいいのにと我ながら思う。


要領の悪さであるとか意識の低さであるとかそういった点が明白であるにも関わらず妙な箇所で臆病さや反動的な自尊心を発揮して謎の正義感を見せたりする自分を誰よりも近くで長らく目撃していていい加減辟易しており、すなわち表層的な自我と監督者的な自己批判がほとんど乖離ししかし同居していて、疲れるし、面倒だし、自己弁護する気も起きなければいちいち頑張ろうと発起することもまれである。
ああこんなゴミがどうして一丁前に東京の片隅に部屋を借りて迷惑千万な脛かじりをしているのだろうと、かなりバイアスがかかってはいるがひとまずの客観的視点からして、そのように呆れているし、一方で自分がその程度の人間であることを自覚してもいる節があるから、主観的にも自分に対して期待していないしまた期待されてもいないだろうと諦めている様子が見受けられる。
だから、どうして自分のような低価値で邪魔でしかない生物がおめおめと生存活動を続けていられるのだろう、と、どこか超越的な視点から眺め見るようにして疑問に感じることになる。この視点というやつは普段は引っ込んでいて、日常の中で何かしらの契機を得ていつの間にか出現している。どういったタイミングでこのような視点に入り込むかということも大概把握してきていて、何の些末なポイントが原因でこんな目に遭っているのかという分析はかなり迅速に行えるようになってきた。もちろんだからといってこれを避ける努力などしないので「あーあ、またやっちゃったよ」と勿体無さげに唸っているだけである。


どうして生きているのだろう、という疑問にはいくつか解釈の余地がある。つまりそれは「どうして」の捉え方の違いで、howとwhyの違いだとか表すこともできそうではあるが、あるいは「何のために」という問いに変換されることもしばしばある。これは「何をするために」であるとか「何になるために」であるとかいう言葉にシフトして最終的に使命感的・義務感的目標やあくまでも自らの欲求を離れない程度での将来像を抱くことに結論する。
一方で今回のような私の疑問にはそういった回答や結論はやって来ない。まずもって疑問であるのかどうか怪しい。「どうして生きているの、早く死ねよ」という旨の発言の後半部分が省略されている内容であるに過ぎない気がする。これが「どうして生きているのだろう、早く死にたい」と内面からの声に変わるころには踏み切りに飛び込んでいるのかもわからず、一方でどうせそんな度胸など無いのだからどうせ死にはしないのだからと奇妙に楽観視しているようにも見える。どうせ死にはしないから、死ねばいいのにと暗に仄めかすような内省的疑念を立て、サンドバックを叩くように自らの精神で以てストレス解消的な行為に充てている。他人に危害を加えるような真似に走るより自己完結していたほうがよほど穏便であろうというこれも昔からの癖であるように思える。単に苛立ちをぶつける相手が近くにいないだけであるともいう。
なお、テレビや雑誌では口を揃えてこうした傾向の人物を指し「溜まりに溜まったストレスが爆発すると危険」であると評価する。どうせ大した行為に走るだけの気合なんか無いんだから放っておいても平気ですよこんな奴、と内心毎度自嘲気味にさせられる。


四六時中こういった「どうして」に縛られているわけではないにせよこれを覆すような事態もまず考えられず、結局自分は騙し騙し誤魔化しているだけなのだろうなという結論に至る。
油断すると襲ってくるこれは、自分自身の内より出て自分自身を眺め見る観点からの二層的な呆れであり、生来の気質とこの20数年で培われた人格形成の絶妙なコラボレーションにより描き出される賜物ということで自分の根底に宿っているものと思われる。厄介で仕方が無いが批判されるべき点を随所に曝け出している自分が・お前が悪いのだから致し方無い、と簡単に納得できる・させられる。


今回この文面を書くに至った理由として最近ここに新たに「後ろめたさ」の要素が付け加わってきたように思えているからということが挙がる。
自分のことを過度に卑下しこれを以て自虐するのは、何も自分に・自分の能力や功績に自信が無いからとかそういったことが原因であるのではなく、どこかに後ろめたさがあるからであるように感じられている。自分で自分のことを評価・擁護・正当化することに対する後ろめたさ。担保されていない価値をプレゼンすることへの後ろめたさ。本当はろくでもない屑であるのにも関わらず一般人面をしてここまでやってきていることへの後ろめたさ。罪悪感というほど大それたことはきっとしていないのだろうと思う。しかし、現在の自分の立場と、自分の中身があまりにかけ離れているような気がしてならない。年齢を重ねるごとに漠然と感じていた不安であるし、多くの優秀な人々に出会うごとに感じる劣等感・嫉妬心の裏返しとしての自己非難の延長であるともいえそうである。
まあ、自立していない証拠でしかないのかもしれない。
何様だよ死ね。


私が就職活動をしたくない理由の一つとしてこのようなことが挙げられるのかもしれないなとふと思いました。自分が貢献可能な領域など到底有り得まいとどこかで既に諦めている。働きたくないとか稼ぎたくないとかいうつもりはそこまであるわけでもなく、ただ自分が何の役に立つかなどというアピールを捏造することへの後ろめたさがひたすら堪え難いし、気持ち悪い。
生活のためにそれをカモフラージュすることも覚えなくてはならないのだろうと思う。しかしもうその技術を習得するためには遅すぎるような気もしている。いや、技術自体は手間さえかければいずれ習得できるのだろうとは思う。
自己を擁護しようという意思をなかなか得られないのが取り返しのつかないところなのだろうと漠然と震える。


死にたい、とまではあえて言わないが、生きるに値するだけの人間であるかと問われれば必ずしも即座に肯定はできないし、生きるに値するだけの人間になりたいかと問われてもまた首を縦に振ることができるかなんとも怪しい、自分という人間に対するそんな程度の評価が自分の中心を占めている。少し傾ければ簡単に死にたいという言葉が口を突いて出てくるだろう。劣等感に誘爆させればきっと容易い。実際に今現在そのようにして充分落ち込んでいる。
世間的に言う鬱とかいう状態に比べればずっと理性的な面が残っていて、一方その理性が救いにならないばかりか追い打ちをかけてくるのだから、これはまた何か別種の状態異常なのではとなんとなく思っていたりする。根の性格が悪いだけかもしれないが。



端的に、生きるのが面倒くさい。

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2013-09-21-Sat 23:54:09 │EDIT
「地図上に描かれた一本の道を私が目で辿る場合には、道を引き返すことや、その道が所々で分岐していないかどうかを探ることを妨げるものは何もない。しかし、時間は辿り直される線ではない。なるほど、時間がひとたび流れ去ったなら、われわれはその継起的諸瞬間を互いに外在的なものとして表象し、かくして空間を横切る一本の線に思い描く権利を有する。けれども、この線によって象徴されるのが流れつつある時間ではなく、流れ去った時間であることに変わりはないだろう。これこそ自由意志の擁護者と敵対者が等しく忘却している点である。」(ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論』合田・平井訳)


てきとうに本をめくっていたらたまたま目につきました。
自由意志云々についてはまたともかくとして、時間を一本の線に例えた際に犯しがちな誤謬については、個人的にかなり判明な納得をもたらすところがあり。


若者の自殺が咎められるのは彼にその先の未来があるからである、というような言い方をするような立場がどれほど強いかは知りませんが、こんなことを言われる際には、やはり時間が未来方向に向かって既に舗装されているような印象を受けてしまいます。
長いこと得体の知れない違和感を覚えていたのですが、ようやく正体を掴んだ心地です。要するに、1秒先だって私たちは生きていることの確実性を確証できないのに、どうしてそんなに未来のことを前提のように考えられるのだろうかと。


自分が努力のできない性格であることと、自分が打算を嫌うこととがおよそ一致することにも同時に気付かされました。やっぱり未来が当たり前のように訪れると信じ切っている様が苦手なのだと思います。
予定を立てるのも苦手ですし、スケジュール管理の杜撰さでどれほど迷惑をもたらしてきたか知れません。しかしやはり先を見る行動というのが苦手です。


ところが一方で「企投」については違和感なく受容できている自分にも気付きました。
これは自分が死ぬ存在であるということを理解し自身の生命の限界を意識しながら行為するという意味であるのですが、未来を見据えているようでありながら、その実たんに「いいかお前は死ぬんだからな」と言っているのであり、それがいついつであるのだからそれまでにこうこうこうしておくべし、とは特に言っているわけでもなし。
時間的猶予は保証されていないといえます。ハイデガーさんこわい。





結局何が言いたいかといって、人生の岐路に立つとき、それが今後のン十年に関わる巨大な選択・判断であるのだ、と思うとどうにも話が大きくなりすぎてきて困惑してしまいそうなものですが、たんにそれが眼前にある問題であるという事実ばかりを見遣ってみれば、少なくとも余計な荷物が下ろされて案外楽になるのではないでしょうかね、という話。
そもそも「人生の岐路」という表現自体が奇妙です。一瞬一瞬の間に性質の差はあるものなのでしょうか、時間空間の側にそれを置き去りにするのも無責任な気がします。モナドロジーかよって話ですが。




そういうわけで今日は一大事をひとつ終えてきました。ちかれた。

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2013-09-17-Tue 23:27:45 │EDIT
ユーモア
【英】humor
もと体液の意。古代生理学では、体液の種類と量が人の性格や気質を決定すると考えられた。
キルケゴールは、ユーモアを倫理的実存と宗教的実存との境に置き、無限なるものの姿とした。世俗的なものは、絶対的なものの前では無意味であり、滑稽だからである。
これはユーモア一般の本質をよく表現している。ユーモアは意味がないからナンセンスなのではない。むしろ積極的に意味の破壊――空の空なるものをめざすからこそ、ナンセンスなのである。
そしてナンセンスを笑われている当の相手は、実は我々自身でもある。ユーモアが与える心温まる連帯感の源は、この共犯性にある。
皮肉が孤独な笑いとすれば、ユーモアは共笑いといえよう。皮肉屋は自らを高くし、自らを神の位置において愚者を笑うのに対して、ユーモリストは自らを低くし、自らを被造物の位置において、我々すべての不条理――そのセンスへの執着のナンセンスを笑うのである。
(講談社現代新書『現代哲学辞典』より)



勉強といえるほど勉強していませんがそんなさなかに見かけました。
ユーモリストという言葉が非常に気に入りました。



あれこれと気にかかって、そんなことを気にしている余裕はないのだよと自らを諌め、そのバランスの制御に失敗して拗ねたり不貞腐れたりしているうちに今年度も折り返しました。
すべきことは何一つ終わっていません。



大事の前は決まって鬱になります。
ゆとり世代なので努力の仕方を知りません(爆笑)

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2013-08-19-Mon 23:58:38 │EDIT

されど立つ鳥後をうんたら。



実家に帰ったり合宿にお邪魔したりという中でそこそこ多くの方と話をしていると、最近自分は些細なことにイライラしすぎなのではないか、とがっかりしてしまうレベルで他人の言動の端々を気にしてしまっていることに気付きました。
それを明確に言葉にできない点においてなお苛立ち落ち込みます。伝える技術も手段も、そもそも伝える相手がいなくて憤慨し落胆し最終的に泣きます。



基本的に人間不信なので人の発言を否定的に捉えてしまう癖がついています。
それを差し引いても、自分の中で、他人のほんの少しの、パラダイムというか思考の枠組みというか、そういった時点からしての部分的な要素が、どうにも看過できず、どうしてそんなことを思っているのだろう、と疑問に思うと同時に、そう思っていない自分のことをこの人は本当に理解しているだろうか、とか、あるいはその逆だとか、あれこれ苛まれます。



多様性を認めるべしとよく言われますがだいたいの場合において認められているケースは少ないように感じられます。
「あいつはああなんだ、だから仕方ない」という無理やりな納得の仕方は暴言吐いているのとなんら変わりません。
相互理解とは言いますが理解したいと思い難い対象もある以上面倒くさい話だなと思います。



とりあえずそんな感じで思うところがたくさん発見されたここ数日でした。
ネタが仕入れられてどこか安心してすらいます(ぇ

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プロフィール
HN:
赤鯖
年齢:
32
性別:
非公開
誕生日:
1991/10/06
職業:
大学生
自己紹介:
自分のためでない、他人のためのコミュニケーションを心掛けたら、孤立した。
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