「事前に設問を公開し、用意してきた答案を試験当日に教室で書く」というスタイルの試験。
哲学系統でこれをやることがままあるわけですが、どうにも多くの人が陥っている罠というのがあるように感じられます、ここ最近。
哲学の記述というのは数学や法学のように明確な回答の与えられているものばかりであるとは限りません。
良く言って自由、悪く言って曖昧であり、要は芯を外さなければ書き方そのものは案外任せられている。
つまり「覚えゲー」では分が悪いのです(通用しないと言っているわけではありませんが)。
たとえ400字500字ほどであっても、一字一句覚え込もうというのは無茶。
個人的な意見ですが、あれは必要なパーツを覚え、その組み立てる順序を理解することが近道であると思っています。
このあたり楽器演奏に近い物を感じています。
楽譜の一音一音をすべて細かに詳細に覚えるよりも、ある程度のメロディラインに沿って流れを掴んで演奏に慣れていくほうが、よほど楽でありかつ楽しめる。
ゲシュタルト心理学的な掴み方はプラトンでいうイデア論に似ていたりするというお話はともかくとして。
細かに覚え込むことにはリスクがあります。単純に疲れます。意識を抹消にまで及ばせようとするのは暗記モノの弊害であると思っています。まあ私は暗記系統が大の苦手なのでこんなこと言うのですが。
それにしたって、せっかく用意してきた答案が途中で突っかかって思い出せない、というのはもったいないなと思ってしまいます。試験時間が一時間半ほどもあるのならば、その長時間を想起だけに費やすよりも、いっそその場で答案を作成してしまうのが効率的であるようにすら思えます。
マテリアルだけは最低限用意しておかなければなりませんけれど。それにしてもレポートまるまる頭に叩き込むよりか多少楽なはず。
というこの言い方はもしかしたら哲学に限らないのかもしれませんけれど。
基本原理を覚えておき、材料を持ち寄り、その場で作って遊ぼうすることは真に勉学と戯れているのだと思います。
まあ私は基本覚えるのが大の苦手なのですけど(
さすがに4年目なのである程度は体感で物が言えます。説得力無いですけど。
まあ変に意識高いぶるよりは本質的にモノを見る力を養うほうが大事なのだろうなと思います。表層的なマニュアル式の答案ではちょっと心もとない。
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