過去記事を大量に非公開化しました。
これで精神に安寧が訪れます。
自分が過去に書いたブログ記事を見返すと、だいたい何を言っているのかはさすがに自分のことなので概ねわかるが、ただこれじゃあわかりにくいわな、とは思うようになっている。さすがにそのくらいの時間が経っている。
わかりにくいというか、変に勿体付けていることが非常に多い。大したことでもないのに大仰に書いていたりする。そういうのを見返すと、ああ何やってるのお前、という気分になる。
というのも、このブログを始めたのが2010年春からであって、当時はまだツイッターに手を出していなかったため、些細なことであっても対外的に表出する手段を持ち合せていなかったためにそうなっている。
だから金欠だとかテストだとかレポートだとか、そういった本当に日常的な些細な内容で1記事消費していたりする。
もちろんそれが悪いこととは思わないし、ウェブログという意味で言うならどんな記録をしようが定義から外れるものではないのだろうとも思う。ただ圧倒的に内容に欠ける、つまらないだけのことである。文章量も非常に少ない。情けないほど語彙が無い。今現在それで多少マシになったのかというとこれも甚だ怪しい。
今更になってこんなことを言うのも変な話ながら、実はブログを持つのはこのページが3つ目で、高校時代に別ジャンルの内容を書くためのブログをもう2つほど書いていた。
そう思うと意外とこの媒体との付き合いは長い。嫌でも見えてくるものはある。勝手がわかってくるというか。わかった上で適当にやっているのだからどうということはない。
そもそも自分の日常を書き記してインターネット上に公開するということが何になるというのか、と、時々自分でも確かに疑問に思う。自分でもそう思うし、それ以上に、私の周囲にはそういう行為に対して懐疑的な態度をとる人物がやたらと多い。その中にあって私などまだアクティブなほうだと思う。
想像しやすい言葉は「自己顕示欲」だが、自分が他人に見てもらうに値するような行動をとった上でそれを文章に残しているとは到底思っていないし、どうしても他人に見てもらいたい読んでもらいたいと思うのであればもっと様々にアプローチを工夫できるのだろうとも思う。おそらくこの要素は動機として最適ではない。
それに比べれば、まだ、今回のように、自分で自分の過去の文章やエピソードを見返して、当時と現在との距離感を把握するために用いる、という狙いのほうが、自分には適当であるようにも思える。
解釈学的な自己という話。
半年ほど前に、アナログで日記を書き始めた、というエントリーを書いていたが、あちらでは日記の効能や性質について適当な雑感を書いたのに対し、今回はブログでものを書く、ということについて考えている。
いずれは話題になることがあらかじめ決まっていたかのような感覚すらある。
この手のことを考えると、他に、インターネットという非常に広範囲に公開されるという側面から、自分のどのような部分を切り出して表出するのかだとか、あるいはどのような人物に読んでもらうことを想定するかだとか、いくらでも考察の余地が得られそうではあるものの、どうせ過去の自分はそんな大仰なことは何一つ考えずにただ闇雲にページを埋めようとしていただけであると思しいので、今更になって行動原理について考えることは大した意味も無いのだろうとは思う。どうせ大した意味も無く始めたブログなのだから。
文章制作という行為についてその程度の低い意識でもって接することができるというのはある意味大事なことなのかもしれないとは思う。書けば書いただけ、書かなければ書かなかっただけ、それ相応の跳ね返りがやってくる分野であるような気がしている。別に文章が上手くなったと自負しているつもりは毛頭無いが、ただ、他人に見られる場に文章を晒すのだ、ということを踏まえれば、これを何年も続けることにそれなりの成果を期待したくもなる。
概ね願望である。
ただ、時々、「自分と全く関係の無い人のブログを読んで、自分と全く関係の無い人の生活の様子を漠然と眺めているだけで割と楽しい」という意見を耳にすることはあるもので、確かにそういう楽しみはあるのだろうなあという気は少ししていたりする。
自分と全く離れた場所でも営みは行われているのであり、それは少し安心するし、自分と全く関係が無い人物でもエピソードの中にあって色々なことを様々に感じているのだと思うと、それも何か面白く思われる。
ような気がする。
という、自己正当化でした。
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