最近日記を付け始めた。
ブログとは別に、アナログに、ルーズリーフに概ね1枚ずつ。
3月1日から開始してなんとか3日坊主は免れている。もっとも自分の傾向としては「3週間」で飽きることが非常に多いので油断ならない。
日記を付け始めたのには理由が幾つかあり、例えば寝る前にはPCの画面を見ない、PCを閉じて30分ほど経ってから眠るほうがよい、というような言説が挙げられる。
実際眠りのほどは多少良くなった気がしないでもない。
最近はよく夢を見る。マイナスなイメージを示唆するものであることは門外漢の自分にも察せられるので中身は明かさないけれども。
自分の興味・関心が日記というものに向かっているにも関わらず自分で自分の日記をつけていないというのもまたこれはおかしいのではないかと思った、というのも理由の一つだったりする。
1月2月が虚無的に何事も無くただ過ぎてしまったことを惜しむ気持ちもあった。日々は少ないながらも必ず何かが起きて進行している、というのが高校時代からの持論で、つまり毎日必ず何かしらの出来事が起きている、エピソードが、体験が起きている。それらをボロボロ取りこぼしてしまうのが何かとても酷いことであるような気がして、そのために少しでも保存したい気持ちがあったのは否定できない。
ブログでは駄目なのか。駄目です。
理由は3つあって、1つは先の通りアナログな手段で通したかったということ。パソコンから距離を置きたいのにパソコンで文章を書けはしない。
もう1つは他人の目に触れるということ。これがなかなか自分の中で大きかったらしく、というのも、自分が書く文章はどこかで読者としての他者を想定していたというか、何かカッコつけた感じというか、良い子ぶっているわけである。これまで何度かアナログに日記を書いては頓挫して、を繰り返してきたが、そのいずれも、何かええかっこしいだったというか、本音を書き切れていなかったというか。
自分自身を正確に記述するためにはやはり偽りや配慮を剥ぎ取った素体の言葉遣いをすべきだと思うし、そういう記述とは他人の目に晒すに値するようなものには程遠い。
そして3つ目は、これは実際に書き始めて気付いたことなのだが、書いている最中に出来上がる自己というものが確かに存在する。モヤモヤして輪郭の曖昧な自分自身の背後にいる何者かを、さしあたり言葉という形式の中に追いやることができる気がする。そしてそれを、書きながら自分の目で追っていくことになる。だからなるべく文章は考えずに書くようにしている。ペンの赴くままに。ほとんど無意識的に。時として文法や意味合いが破綻することもある。人様に晒すようなものではないというのはそういう意味でもある。
こんな話が円城塔の短編にあった気がする。「考速」だったか。
ブログは他人のために見せるものであり、また自分の述べたい言葉がすでにある程度固まっている時にそれをそこそこのフォーマットで保存するために使うべきツールである。
その意味で本来の日記という言葉の意味とは役割があまりにかけ離れて違うように思える。
日記を付け始めた理由は他にも、ボールペンでの筆記に慣れるためとか、1日の区切りを明確にするためとか、色々ある。どこまでが理由でどこからがやってみて気付いた恩恵なのかは判然としない。
最近本当にあまりにも文章を書かなさすぎたのは自覚のあるところなので、それを多少なり改善する意味合いはあった。
毎夜寝る前に日記を書いた後は、何か妙に頭がじーんとしている。これは果たして、記憶をたどる想起のために起こる疲れなのか、それとも文章に変換する出力作業のために起こるものなのか。
一方でブログという形式にも再び触っていきたい意欲が少しずつ生じている気がする。
多分に就職活動やらの文句・批判・愚痴ばかりになることは想像に難くないわけですが。
Twitterにばら撒くよりかは多少なり迷惑度が低いと思われるというのはある。あれはどうしても少し憚られる。
ブログという、一歩距離を置いた場所で、自分のスペースで、勝手に好き放題書いていればよいわけである。
それとも、本当に好き放題書くためにオフラインでも筆記の場所を作ったと言えなくもないのだろうか。
ネタはあっても話し相手がいないので、ブログというツールはぼっちにとって有用なのかもしれないと再認識させられる。
実際書くかどうかは未定。