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2015-05-18-Mon 22:52:42 │EDIT
時間の流れるスピードの感覚で自分の精神状態を推し量るということを時々する。


不思議なもので、集中している時ほど時間の流れるのが速いケースと、集中している時ほど時間の流れるのが遅いケースと、どちらもある。
そのため、例えば今時間が速く過ぎていく気がするということは己の気分はこのようになっているのだろうな、といったような法則性を導くには目下至っていない。
さしあたり、自分が何か、速いか遅いかはともかくとして通常とは異なる時間感覚に陥っているな、と気付くための指針程度に利用する。だいたいそういうときは決まって内面の状態も善し悪し分かれている。
そこまで判明してしまえば、善しか悪しかを判断するのは他の要因を以て容易い。


特に気になっているのが眠気に対する時間感覚の変化で、極端に眠い時には、時間の流れがやたら速い場合と妙に遅い場合と、どちらもある。
あるはあるが、全体的に前者は「眠気を押して何かをしている場合」、後者は「布団の中で就寝/起床する寸前」によく訪れる傾向があるように、個人的には思えている。
リラックスしている眠気ならば時間をゆったりと捉えるのであるとか、そんな感じの結論めいた話にもできたりするのかもしれない。切羽詰まった眠気の中で作業を行って効率が落ちるのもまた自明なことであるようにも思えるだろうか。


もちろん有限な時間を可能な限り引き延ばして活用するに越したことはないものと考えられる。もったないから。
その理屈で言えば基本的に時間は遅く流れているように感じられるほうがお得ということになる。
もちろん自分自身の動作までつられて一緒にノロくなってしまっていては元も子もないのであって、基本スタンスはあくまでも限られた時間の中を自分なりにそこそこ活発に動いていくことを前提としたものとなる。大方そうやって自分の行動を活性化させようとする時というのは時間の感覚もニュートラルに近付く気がするが。


人と同じ時間で人以上のことができるのであればそれはもちろん相対的に有能めいて見える。私が本を1ページ読む間に同じ本を1冊読み終えてしまうような人物は想定できるだろう。彼はそうして読み終えた本をそっと閉じてから芋虫のように文字を追う私を見遣って鼻で笑う。もちろんここで言うスピードに基づく能力差とは見かけだけの問題なので、例えば私がその彼よりも充実した読書感想文を書くことができるような可能性は否定されないわけだけれども。
そういう速さはキャッチーだからやはり素敵に見えてしまうのだろうと思う。私が・あるいは誰かが、自分のことをそうやって無能呼ばわりしたことは何度かあるようにも思える。そんなことは無いのだと言うことはまあ、できるだろう。しかしせっかく時間を引き延ばして利用せずにボンヤリ呆けているというのは、それは何か一つ機会を見逃してはいまいか。


とかいう感じで、時間の流れが遅い時はなるべくモチベーションを上げていこうとしていたりするのだとか。
少なくとも徹夜明けの1日は物凄い勢いで過ぎていくしネットにばかり入り浸っていく日常は何も残さないまま終わってしまう。
後から振り返って過去の内容の程度を考えるなら、その中身として想起されるところの具体的なもろもろの行動が無いとあまりにも空虚にしか感じられないのだと最近学んだ。
身を以て学んだ。



ちなみに個人的には「聴いている時には長いと思っていたが後で時間を確認したら思っていたよりも短かった曲」はだいたい良い曲だというジンクスがあったりする。

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2015-03-17-Tue 23:21:27 │EDIT
よく「一人で抱え込むタイプ」と言われる。
実際は他人の能力を信用できないだけだし責任の所在が自分にあるほうが立ち回り楽だし自分の考えを他人に伝える気も持っていないからだと思う、正直。
被害者ヅラしてるほうが気持ち良いと思っているフシさえある。まあ虫酸の走る話ではありますが


「相談」という行為をほとんどしたことが無い。
中学高校と自殺したくなるような衝動に襲われる日々を過ごしながら家族にも担任にも一言も訴えを起こしたことは無かったし(そうすることが正しいと思われる理屈も無かった)、保健室登校だとかそういうことをするだけの勇気がむしろ無かった。
悩みだとか不満だとか鬱憤だとかそういうマイナスなものを他人に噴出するのはこちらの一方的な暴力的行為であると感じていたしそんなものに付き合ってもらうほどの縁がある人間もほとんどいなかった。数少ない繋がりのある知人に対してそんな関係を新たに上乗せするのも気乗りしなかったし、自分だけが一人で被害を被っているのであれば事が簡単で良いと思っていた。
まあ自分なんてそんな程度の者なのだろうなと諦める心地は多分にあった。
結局そんなままで今に至る。


報告・連絡・相談の三つのうちで前二つは事務的にこなせるが、相談というものだけはどうしても人間臭くなる。
どうして好き好んで自分の抱える問題点を他人に対してプレゼンテーションしなければならないのだと思ってしまう。
そうすることで確実に打開策が得られるとは思えないし、要するに他人を舐めている/信用していないだけなのですが、そもそもそういう効果を求めてやるものでもないのだろうなと思う。
単に自分の弱さを明け透けにできない変なプライド持ちなだけではあろうし、そうすることで他人から舐められることを恐れているだけなのだろうと思う。
生来の馬鹿にされ体質からすっかり負け犬根性が染み付いてしまっている。


他人はすべからく自分のことを腹の底で軽蔑しているんだろうなと思っている程度には人間不信だし自分にそんな程度の価値なんてあるわけないだろうと言い聞かせて安心を得る程度には捻くれている、この現状に自覚があるのにどうしても不信感は消えない。
結局自分のことを無条件に肯定してくれる虫の良い話を待っているだけなのかもしれない。
さっさと実家に帰って両親の庇護下で家事手伝いでもしてろよっていうか。


尊重されることも嘘くさくなってきて、いっそ見下されることに安堵して、ほらやっぱりね、という結論に安住したがっている。
敗者のシナリオという話もあるが、自分は上手く行ってはならないのだという思い込みは本当にふとした拍子に脳裏をかすめる。
かといって実際に能力やポテンシャルがあるわけでもないのでこんな人間がどこに行くことを許されているのだろうかと思うと将来は暗いし早急に息の根を止めるべきなのではないだろうかと疑わしくもなる。


やっぱり人は分かりあえない。

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2015-03-07-Sat 02:36:39 │EDIT

最近日記を付け始めた。
ブログとは別に、アナログに、ルーズリーフに概ね1枚ずつ。
3月1日から開始してなんとか3日坊主は免れている。もっとも自分の傾向としては「3週間」で飽きることが非常に多いので油断ならない。


日記を付け始めたのには理由が幾つかあり、例えば寝る前にはPCの画面を見ない、PCを閉じて30分ほど経ってから眠るほうがよい、というような言説が挙げられる。
実際眠りのほどは多少良くなった気がしないでもない。
最近はよく夢を見る。マイナスなイメージを示唆するものであることは門外漢の自分にも察せられるので中身は明かさないけれども。


自分の興味・関心が日記というものに向かっているにも関わらず自分で自分の日記をつけていないというのもまたこれはおかしいのではないかと思った、というのも理由の一つだったりする。
1月2月が虚無的に何事も無くただ過ぎてしまったことを惜しむ気持ちもあった。日々は少ないながらも必ず何かが起きて進行している、というのが高校時代からの持論で、つまり毎日必ず何かしらの出来事が起きている、エピソードが、体験が起きている。それらをボロボロ取りこぼしてしまうのが何かとても酷いことであるような気がして、そのために少しでも保存したい気持ちがあったのは否定できない。


ブログでは駄目なのか。駄目です。
理由は3つあって、1つは先の通りアナログな手段で通したかったということ。パソコンから距離を置きたいのにパソコンで文章を書けはしない。
もう1つは他人の目に触れるということ。これがなかなか自分の中で大きかったらしく、というのも、自分が書く文章はどこかで読者としての他者を想定していたというか、何かカッコつけた感じというか、良い子ぶっているわけである。これまで何度かアナログに日記を書いては頓挫して、を繰り返してきたが、そのいずれも、何かええかっこしいだったというか、本音を書き切れていなかったというか。
自分自身を正確に記述するためにはやはり偽りや配慮を剥ぎ取った素体の言葉遣いをすべきだと思うし、そういう記述とは他人の目に晒すに値するようなものには程遠い。
そして3つ目は、これは実際に書き始めて気付いたことなのだが、書いている最中に出来上がる自己というものが確かに存在する。モヤモヤして輪郭の曖昧な自分自身の背後にいる何者かを、さしあたり言葉という形式の中に追いやることができる気がする。そしてそれを、書きながら自分の目で追っていくことになる。だからなるべく文章は考えずに書くようにしている。ペンの赴くままに。ほとんど無意識的に。時として文法や意味合いが破綻することもある。人様に晒すようなものではないというのはそういう意味でもある。
こんな話が円城塔の短編にあった気がする。「考速」だったか。


ブログは他人のために見せるものであり、また自分の述べたい言葉がすでにある程度固まっている時にそれをそこそこのフォーマットで保存するために使うべきツールである。
その意味で本来の日記という言葉の意味とは役割があまりにかけ離れて違うように思える。


日記を付け始めた理由は他にも、ボールペンでの筆記に慣れるためとか、1日の区切りを明確にするためとか、色々ある。どこまでが理由でどこからがやってみて気付いた恩恵なのかは判然としない。
最近本当にあまりにも文章を書かなさすぎたのは自覚のあるところなので、それを多少なり改善する意味合いはあった。
毎夜寝る前に日記を書いた後は、何か妙に頭がじーんとしている。これは果たして、記憶をたどる想起のために起こる疲れなのか、それとも文章に変換する出力作業のために起こるものなのか。


一方でブログという形式にも再び触っていきたい意欲が少しずつ生じている気がする。
多分に就職活動やらの文句・批判・愚痴ばかりになることは想像に難くないわけですが。
Twitterにばら撒くよりかは多少なり迷惑度が低いと思われるというのはある。あれはどうしても少し憚られる。
ブログという、一歩距離を置いた場所で、自分のスペースで、勝手に好き放題書いていればよいわけである。
それとも、本当に好き放題書くためにオフラインでも筆記の場所を作ったと言えなくもないのだろうか。


ネタはあっても話し相手がいないので、ブログというツールはぼっちにとって有用なのかもしれないと再認識させられる。
実際書くかどうかは未定。

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2014-09-13-Sat 02:49:50 │EDIT
無知と無垢は違う。
ちょっとかわいいくらいが許されるお年頃というのはとっくに終わっていたりするのだけど。



得手不得手があるのは仕方が無い、向き不向きがあるのだから仕方が無い。
一方である程度のディスアドバンテージならば意識で努力で改善しろよという話であったりする。
理屈でどうにかなるのならばせめて理性で制御してみせろよと。それができないのが向上心が無いということで、それができないうちは馬鹿なのだから、つまり、よく言うところの、向上心が無い奴は馬鹿だということ。



献身と、自己犠牲と、こんなにかわいそうなアタシを擁護してよねえ、というのは全部それぞれ性格が違っていて、でも混同している人をよく見かけるもので、そしてこれらが見分けられない人もまた同じくらいたくさんいるような気がする。
自虐癖とは10年来の付き合いだけど、さて自分の場合、何をやっているのか。有り体に言うなら客観視というか。自己観察の末の私情を挟まない評価の結果というか。



「自分に厳しく」の意味をどこか履き違えている。
気付いていたとしても今更なかなか治るまい。
「他人に優しく」も「他人にとって易しく」という意味合いになりつつあったりする。
私はチョロいよ。



大概無能で、前期もこの夏も色々な人に迷惑を及ぼしましたが、さすがに今後はもうちょっと頑張りましょうよと。
お前は何をのうのうと生きていやがると、言われないために、言わせないために。

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2014-09-02-Tue 03:35:23 │EDIT
夏休みの思い出シリーズ。


私の実家があるのは小さな町で、政令指定都市の都会が途切れてこれから田舎に切り替わりますという境界に位置するようなベッドタウン的エリアである。
というかド田舎である。
地平線は概ね360度全て山か森だし、小学校の前には木々に覆われて日中でも薄暗くアホみたいに長く曲がりくねった坂があるし、リスが出ればタヌキも出る、お地蔵さんの隣に野菜が置いてあって無人で売っていたりするような。


バスや自転車を使えば容易に街中まで行くことができる立地であるとはいえ、できる限りのことは生活圏内で済ませてしまいたいものだった。
私の街にはもともと3軒の本屋があったが、2つは私が中学生のころに閉店してしまった。
旧街道沿い、母校の中学のすぐ隣にあるツタヤだけが残っていた。


そのツタヤが閉店したことを今夏の帰省で知った。


原因と呼べるほどの立派なロジックが働いていたのかどうかはわからない。不況の煽りだの出版界全体の慢性的な業績不振だのCDが買われなくなっただのいくらでもさんざん言われている。
実際それで書店が潰れていくのを何度か目の当たりにしてきた。地元の田舎だけでなく、東京であってすら、小さな本屋さんが100均に塗り替えられていく光景を見た。立ち行かない店は持続不可能であるなんて当然のことでしかない。本屋に限った話ですらない。私が東京の一角に住み着いてこの5年で3軒ほど商店街のシャッターが下りた。


それでもやはり意外だったし、遣る瀬無いような、寂しいような、何とも言えない気分にさせられた。
店舗としてはなかなか大きかったのである。まして天下のツタヤである。地域住民がどこかに足を伸ばすことなく雑誌や小説を買うとしたら他に場所は無い。
小学校5年生で転校して、以来高校を卒業するまで、何度も通った場所である。どこか戦友を亡くしたような心地がした。


「町の本屋さん」では、もはややって行けないのだろうか。
例えば2011年に集英社がワンピース60巻を一斉重版した際に、それほどの量を店頭に並べなくてはならないことが大きな圧迫となって小さな書店がいくつも潰れたという話を聞いたことがある。
流通だ経済だ、マーケティングだ何だかんだとあれこれ挙げたところで、小さな町の書店に何がフィードバックされてくるかなどと、どこまで問題視されることか。


この夏、全国の小中学生を対象に学力調査のようなものが行われたと、家族旅行の帰り道で聞いたラジオのニュースで報道していた。
いわく、我らが静岡県は国語分野に関して全国平均を下回っていたのだと。
「当たり前だ、本を読まないんだから」
と、運転しながら父が言っていた。高卒で技術屋の職に就く同期も多いような地域である。全体的に理系の気があるが、それはもっぱらロジックと無縁に振るわれる。
「だから本屋も潰れるんだ」
という推察はあながち間違っていないと思った。


小中高とさほどの小遣いももらわなかった私にとっては、1冊の本もその都度大きな買い物だった。大したものは買っていないにしてもいちいちよく覚えている。あの店で買ったのはほとんどライトノベルか漫画の単行本で、時雨沢恵一やハセガワケイスケにハマった時は読み終わるごとに買いに行った。ガンガンにハマった時は土塚系作品を揃えたし、母の誕生日や妹の誕生日に可愛い本を買ったこともあった。初めてロッキンオンジャパンを読んだときは自分はこれをこそ望んでいたのだと思ったし、弟が両親に内緒で買って2人で遊んでいたゲームの攻略本をこれまたこっそりと買ってきたこともあった。ブレイドやガンガンが立ち読みできる稀有なスポットだった。カードゲームもCDも買った。一番の掘り出し物はメレンゲの「カメレオン」のシングルだった。中学の友達がその店でデュエマのパックを万引きしただのどうだのと騒がれていたこともあった。
あの店で買ったBee Noteにはまだ1文字も書いていない。
よく覚えている。


自分はさほどの読書家でもないので年に数度しか本屋でモノを買うことがない。よってこういった件に対して何事も言う権利は無いのかもしれない。
私はあの店を一生懸命維持したかったというわけではないのだろうと思う。
ただ寂しいのである。





この記事タイトル、「色をつける」の変換に少し迷いました。
普通に考えれば「色を付ける」だし実際こちらが正しいようなのですが、「着色」という言葉から「色を着ける」ともとれる。
色を、事物のもっとも表面を覆っているテクスチャのようなものとして捉えるならば、あたかも「着」ているようであるということができるのかもしれない。

と、こんなことを考えるような人もどんどんいなくなっていくのだろうか。

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プロフィール
HN:
赤鯖
年齢:
32
性別:
非公開
誕生日:
1991/10/06
職業:
大学生
自己紹介:
自分のためでない、他人のためのコミュニケーションを心掛けたら、孤立した。
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