履歴書を取り出し自分のステイタスを”客観的に””悪くない感じに””素敵に””形式的に”書いて空欄を埋める。
そこにはいい歳こいた人間がそこそこの格好とそこそこの表情で撮った写真が張られている。
これまで過ごしてきた学生としての時間を学歴だの資格だのといった結果だけに還元して味気無い文字で記述する。
3月初頭から飛び飛びながらボールペンで日記を書き続けてきたおかげか、アナログな筆記でもだいぶマシな文字が書けるようになってきた気がする。
それで、不意に冷めた視線になって、結局、ここに書いてある輩は一体何者なのだろうかとふと思う。
自分は自分の事実を自分で自分に明らかなように書いていて、だからそこに嘘は無い。
けれども自分で書いた自分に関する言葉が自分のことではないような乖離感覚がある。
要はそれは「ハタから見た自分の姿」で、多少なり誤差というか言葉の綾こそはあれ、おおよそ間違いようのない確定的な部分だけが書かれているのであって、自分で自分の姿を正確に直接的に観測することはできないのだから自分のことなんて最初から曖昧で、それを差し当たり誤りの無いであろう事実だけの抽出で輪郭付けようとしているからどこかちぐはぐな感じになっているというか。
ずっと昔からある感覚ではあるけれども、改めて思う。自分の皮を被った自分。自分の本体はどちらだ。ずっと昔から鏡に向かうのが苦手でならなかった。そこにいるのは誰だ。自分というのは誰だ。お前のことだ。お前のことを言っている。お前は誰だ。何者だ。
端的に気持ちが悪い。
履歴書1枚、こんなもので何が分かるものかと、思っているし、思っているであろう相手と話ができたら良いのにと思っている。
話をして、自分の弱さを全て暴いた上でそのダメさ加減をさえ許容してくれるなんていう都合の良い話があったら生きるのが楽になるのにと思っている。
根本動機は怠惰だと思う。だからこれはごく都合の良い話。都合の良い話はどこかで帳尻合わせが要るから結局どこかで面倒になることを知っている。私が履歴書をそこそこ丁寧に書くのはそういう意味でちょっとした皮肉めいて見えた。
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