このごろ見る夢はどれもこれも小学校から大学に至るまでのあらゆる年代から関係者が無節操に表れて荒唐無稽な世界観の中で私に迫り来るような内容ばかりで、しかも概ね悪い部分が強調されて登場するので、夢のくせに妙に印象強くてその日1日頭に残っていたりするし、単に頭が全く休まっていないどころかむしろフル回転していたのではないかというくらい強烈な頭痛を伴って起床するから非常に寝覚めが悪い。
ディテールを次第に忘れていき、ああ自分は悪夢を見たのだという事実の認識だけが漠然と残る。どんな夢と言われても明確にストーリーを語れない。細かな部分だけ覚えていて、そして、あそこにいたあの人物はあのころにあの場所にいたあの人だったよな、となんとなく思い返してみたりする。新旧入り乱れ、中学の時のクラスメイトが大学の時の部活仲間と語らっていたりする、奇妙な光景を、最初は違和感なく眺めていて、目が覚めてから可笑しくなってしまう。
夢の意味や内容を分析するとかとは別として、随分と登場人物が増えたものだなと感心してしまう。もちろんただたくさんの人が現れているなという感想だけが残っていて具体的に誰が出てきたぞと名指しすることなどほとんど叶わない。ただ、そこまでコミュニケーションの輪が広いほうではないと自称している自分にしては、それにしては、夢の中に現れて違和感の無い顔が増えたものだと思う。
既に別れてしまった人ほどよく現れるような気がしていて、それはまあ、きっとそういうものなのだろうなと思う。
かつて一緒にいた人物が在りし日のそのままの印象を伴って夢に現れると、懐かしいような感じももちろんあり、しかし同時に大きな違和感を抱えることにもなる。
月並みながら、自分のほうがずいぶんと変わっているのではないかという疑念から来ているのではないかと思う。
夢の中で見る自分の姿はだいたい原形をとどめておらず、ほとんど赤の他人の姿をしていることも多く、それはやっぱり自分で自分の表情を見ることはできないとか、そういう話題なのかなという気がする。私の見る夢は三人称的に俯瞰気味なカメラワークを取ることが多かったりする。
以前は時折いわゆる明晰夢のようなものも見る時があって、けれどもそれは朝起きた時にやはり凄まじい頭痛に襲われるので、だんだんと無闇な抵抗をしないようになっていった。
夢の中で起きる出来事をほとんど自明のこととしてその時点では「感覚」していて、後になって目が覚めて、ああやっぱり夢だったか、と納得したりする。
そのうち夢と現実の区別もつかなくなったりするのかしらんと、妄想してみたくもなる。安い三文小説のように、現実よりも夢の中により意義を見出すような破綻した価値観は、こうなると一概に否定できなくなってくる。
ただなんとなく、自分がこれまでどれほど多くの人の顔を見てきたかということを、こんな機会に思い知ってみる。
関係の質を問わず、期間の長短を問わず。
もしかしたら失敗をやり直したいというような意識が根本にはあるのかもしれなくて、そういう未練たらたらな人間関係があってもおかしくはないと自分でも理解できていて、その上で、いややっぱりもうこれっきりでしょう、と自嘲気味に笑っている。諦めているというほど前向きではなくて、そもそも興味が無いということなのだろうかと思う。去る者を追えない性格になってしまっている。それで良いのだときっと思っている。
だからたまに、普段会うことのない人と不意に出会うことが楽しかったりする。
今日はそういう日でした。
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