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2024-04-26-Fri 00:24:46 │EDIT
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2016-03-03-Thu 01:31:09 │EDIT

実の父親に「お前の教育を間違えたかもしれない」と言われた時にはどういう対応をするのが正解なのだろうか。


「そうだね、私がこんなにドジでノロマで一般常識に欠けて世間の情勢にも政治経済にも興味を持たないのはあなたの甘ったるくて適当な教えのおかげだと思うよ」


みたいな煽りを入れることもまあ、不可能ではなかったのかもしれないと今にして思う。ただそう言い返したところで喧嘩になるだけだし、あるいは喧嘩よりももっと惨めな自己嫌悪に陥る羽目になるかもしれない、お互いに。最悪殴られたのちにお互い気まずくなるような重複だって起こりうる。良い歳になって今更高校生みたいな態度になるのは端的に自分がみっともない。だいたい2人きりの1対1の状況でそんなことを言われたのだから下手に波風立てるのは自分を不利に追い込むばかりである。
そもそもこの煽りは自分を貶めていくばかりなので言っていて情けない。


そんなことはない、と反論するには自分の才能というか性能が雑魚すぎて不十分かつ不適切だった。と思う。低スペックの心身をなんとかやりくりしてここまで落ち延びてきたことをむしろ評価してほしいとさえ思う。
ただ、実際問題として自分の親の教育そのものに問題があったとは微塵も思っていなかったりするので、そのあたりやっぱり自分のステータスの伸びが悪くてただただすいませんでしたねという話になる。これは素直に拗ねているし、本当に申し訳無い気持ちもある。


私は黙って苦笑するだけで、それがまた、馬鹿にされているのにヘラヘラしている阿呆みたいで、果たして最適解だったとも思えなかった。


きっとこれからの「孝行」とかいうもので負け分を取り返していくのが最良なのだろうけれど、それはまた違う話のような気がする。差し当たり今現在の惨憺たる有様の、それはこれまでの集積なのであって、今現在の瞬間の点的な問題ではなく、4年あるいは6年の尺を持つ線的・量的な問題だから。つまりこういうセリフを言わせた時点ですでに私の負けで、そもそも反論や口答えを行う権利すら無かったのではないかという気もしてくる。


父は皮肉屋なのでどうしてもこういうコスい言い方を選ぶのだろうなと自分の中で納得させた。それは今に始まった話ではないし、もう慣れてしまったからこそこちらも受け入れることができたように思える。いや受け入れてしまうのもどうなのという話だけれども。そこは何くそこの野郎今に見てろと奮起してしかるべきなのかもしれない。そういう思いもあるはある。あるけれど、努力も結果も伴っていないのにそういう話をするのはこれもまた愚かなだけだと経験則で知ってしまっている。
現状何をどうすれば誰がどう納得してくれるのかなんて何一つわからないし、そういうハードルを自己満足という名目に設定することにも色々と違和感を覚えてしまうようになってしまって、物事に向かう姿勢が根本からおかしくなっているようにも思える。
誰のせいでこうなった、と言って、親の教育が悪かった、なんて、そんな筋の通らない失礼かつ無様な言い訳を、罷り通らせてたまるか、とは思う。




そういうわけで今日は人生で初めて自分「1人で」車の運転をしました。思っていたほどではないにしても緊張しましたね。

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2015-09-11-Fri 00:29:43 │EDIT
このごろ見る夢はどれもこれも小学校から大学に至るまでのあらゆる年代から関係者が無節操に表れて荒唐無稽な世界観の中で私に迫り来るような内容ばかりで、しかも概ね悪い部分が強調されて登場するので、夢のくせに妙に印象強くてその日1日頭に残っていたりするし、単に頭が全く休まっていないどころかむしろフル回転していたのではないかというくらい強烈な頭痛を伴って起床するから非常に寝覚めが悪い。
ディテールを次第に忘れていき、ああ自分は悪夢を見たのだという事実の認識だけが漠然と残る。どんな夢と言われても明確にストーリーを語れない。細かな部分だけ覚えていて、そして、あそこにいたあの人物はあのころにあの場所にいたあの人だったよな、となんとなく思い返してみたりする。新旧入り乱れ、中学の時のクラスメイトが大学の時の部活仲間と語らっていたりする、奇妙な光景を、最初は違和感なく眺めていて、目が覚めてから可笑しくなってしまう。


夢の意味や内容を分析するとかとは別として、随分と登場人物が増えたものだなと感心してしまう。もちろんただたくさんの人が現れているなという感想だけが残っていて具体的に誰が出てきたぞと名指しすることなどほとんど叶わない。ただ、そこまでコミュニケーションの輪が広いほうではないと自称している自分にしては、それにしては、夢の中に現れて違和感の無い顔が増えたものだと思う。
既に別れてしまった人ほどよく現れるような気がしていて、それはまあ、きっとそういうものなのだろうなと思う。


かつて一緒にいた人物が在りし日のそのままの印象を伴って夢に現れると、懐かしいような感じももちろんあり、しかし同時に大きな違和感を抱えることにもなる。
月並みながら、自分のほうがずいぶんと変わっているのではないかという疑念から来ているのではないかと思う。
夢の中で見る自分の姿はだいたい原形をとどめておらず、ほとんど赤の他人の姿をしていることも多く、それはやっぱり自分で自分の表情を見ることはできないとか、そういう話題なのかなという気がする。私の見る夢は三人称的に俯瞰気味なカメラワークを取ることが多かったりする。


以前は時折いわゆる明晰夢のようなものも見る時があって、けれどもそれは朝起きた時にやはり凄まじい頭痛に襲われるので、だんだんと無闇な抵抗をしないようになっていった。
夢の中で起きる出来事をほとんど自明のこととしてその時点では「感覚」していて、後になって目が覚めて、ああやっぱり夢だったか、と納得したりする。
そのうち夢と現実の区別もつかなくなったりするのかしらんと、妄想してみたくもなる。安い三文小説のように、現実よりも夢の中により意義を見出すような破綻した価値観は、こうなると一概に否定できなくなってくる。


ただなんとなく、自分がこれまでどれほど多くの人の顔を見てきたかということを、こんな機会に思い知ってみる。
関係の質を問わず、期間の長短を問わず。
もしかしたら失敗をやり直したいというような意識が根本にはあるのかもしれなくて、そういう未練たらたらな人間関係があってもおかしくはないと自分でも理解できていて、その上で、いややっぱりもうこれっきりでしょう、と自嘲気味に笑っている。諦めているというほど前向きではなくて、そもそも興味が無いということなのだろうかと思う。去る者を追えない性格になってしまっている。それで良いのだときっと思っている。


だからたまに、普段会うことのない人と不意に出会うことが楽しかったりする。
今日はそういう日でした。

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2015-08-31-Mon 23:59:20 │EDIT
過去記事を大量に非公開化しました。
これで精神に安寧が訪れます。


自分が過去に書いたブログ記事を見返すと、だいたい何を言っているのかはさすがに自分のことなので概ねわかるが、ただこれじゃあわかりにくいわな、とは思うようになっている。さすがにそのくらいの時間が経っている。
わかりにくいというか、変に勿体付けていることが非常に多い。大したことでもないのに大仰に書いていたりする。そういうのを見返すと、ああ何やってるのお前、という気分になる。


というのも、このブログを始めたのが2010年春からであって、当時はまだツイッターに手を出していなかったため、些細なことであっても対外的に表出する手段を持ち合せていなかったためにそうなっている。
だから金欠だとかテストだとかレポートだとか、そういった本当に日常的な些細な内容で1記事消費していたりする。
もちろんそれが悪いこととは思わないし、ウェブログという意味で言うならどんな記録をしようが定義から外れるものではないのだろうとも思う。ただ圧倒的に内容に欠ける、つまらないだけのことである。文章量も非常に少ない。情けないほど語彙が無い。今現在それで多少マシになったのかというとこれも甚だ怪しい。


今更になってこんなことを言うのも変な話ながら、実はブログを持つのはこのページが3つ目で、高校時代に別ジャンルの内容を書くためのブログをもう2つほど書いていた。
そう思うと意外とこの媒体との付き合いは長い。嫌でも見えてくるものはある。勝手がわかってくるというか。わかった上で適当にやっているのだからどうということはない。


そもそも自分の日常を書き記してインターネット上に公開するということが何になるというのか、と、時々自分でも確かに疑問に思う。自分でもそう思うし、それ以上に、私の周囲にはそういう行為に対して懐疑的な態度をとる人物がやたらと多い。その中にあって私などまだアクティブなほうだと思う。
想像しやすい言葉は「自己顕示欲」だが、自分が他人に見てもらうに値するような行動をとった上でそれを文章に残しているとは到底思っていないし、どうしても他人に見てもらいたい読んでもらいたいと思うのであればもっと様々にアプローチを工夫できるのだろうとも思う。おそらくこの要素は動機として最適ではない。
それに比べれば、まだ、今回のように、自分で自分の過去の文章やエピソードを見返して、当時と現在との距離感を把握するために用いる、という狙いのほうが、自分には適当であるようにも思える。
解釈学的な自己という話。


半年ほど前に、アナログで日記を書き始めた、というエントリーを書いていたが、あちらでは日記の効能や性質について適当な雑感を書いたのに対し、今回はブログでものを書く、ということについて考えている。
いずれは話題になることがあらかじめ決まっていたかのような感覚すらある。


この手のことを考えると、他に、インターネットという非常に広範囲に公開されるという側面から、自分のどのような部分を切り出して表出するのかだとか、あるいはどのような人物に読んでもらうことを想定するかだとか、いくらでも考察の余地が得られそうではあるものの、どうせ過去の自分はそんな大仰なことは何一つ考えずにただ闇雲にページを埋めようとしていただけであると思しいので、今更になって行動原理について考えることは大した意味も無いのだろうとは思う。どうせ大した意味も無く始めたブログなのだから。
文章制作という行為についてその程度の低い意識でもって接することができるというのはある意味大事なことなのかもしれないとは思う。書けば書いただけ、書かなければ書かなかっただけ、それ相応の跳ね返りがやってくる分野であるような気がしている。別に文章が上手くなったと自負しているつもりは毛頭無いが、ただ、他人に見られる場に文章を晒すのだ、ということを踏まえれば、これを何年も続けることにそれなりの成果を期待したくもなる。
概ね願望である。


ただ、時々、「自分と全く関係の無い人のブログを読んで、自分と全く関係の無い人の生活の様子を漠然と眺めているだけで割と楽しい」という意見を耳にすることはあるもので、確かにそういう楽しみはあるのだろうなあという気は少ししていたりする。
自分と全く離れた場所でも営みは行われているのであり、それは少し安心するし、自分と全く関係が無い人物でもエピソードの中にあって色々なことを様々に感じているのだと思うと、それも何か面白く思われる。
ような気がする。


という、自己正当化でした。

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2015-08-29-Sat 04:57:51 │EDIT
アクティブな形式というか目に見えて明らかな枠組みを伴っていわゆる「いじめ」を受けた経験は実は今まであまり無い(と自分では思っている)ので、実はそういう理由でもって死にたいという感情を持つ人に100%の共感ができるかどうかは少々怪しかったりする。
というのも、自分の場合「1:「いじめ」とまではいかないがそれなりに下等に見られる扱いをされた」経験と「2:露骨に「いじめ」の渦中にある友人と仲良く接していた」経験が人生の中の多大な割合を占めているため、てっきり自分もそういう目に遭ってきたのだと混同してしまいそうになることがあるためである。
一方で、何か嫌な思いをして死にたくなるような子供時代、というものには非常に覚えがある(というか現在まで継続している)ので、そういう向きに対してはどうにも他人事と思えないような気分になってしまう。



死というものを行動の選択肢の中に入れるようになると視野が狭まる場合と広まる場合と両方ともあって、自分は比較的後者のケースが多かったからここまで助かっているのかもしれないと思う。
しかし、何か行動をするにあたって熟考能力を過度に期待できない年少者に対して、同じ状況をあてはめた場合、もし前者に囚われてしまったら案外と安易にそちらへなだれ込んで行ってしまうものなのではないかという気もする。
もちろん教育心理学的な分野に全く携わっていない素人の経験則なので何の根拠も無い話ではあるが。



小5の頃から内心で死にたい死にたいと連呼してきた結果として妙に思い切りが良くなった気はする。普段は優柔不断なクセに時々決断がやたら速いと言われる。今年の夏に帰省した期間にも、母親に「外食とかでも何食べるか決めるの速いよね」と指摘を受けて少々面食らった。しかし確かにそうなのかもしれないと多少は納得している。
本当に「その時」が来ても迷わないようにするため、の、練習のようにも思える。
だから、どうせ死にたいのであればその前に少々の無茶をやってみるべきなのだろう、というのが持論めいたものになりつつある。ハイデッガーのいうところの先駆的覚悟、というほどシャレたものでは到底ありえない、要するにこれは単なる貧乏性の延長のようなもの。



死にたいと一度でも思ってしまったらその時点で死を行動の選択肢に含んでしまっていて、それはもう既に取り返しが付かない。それ以降にどのような癒しやケアがあろうとも、もはや死から目を逸らすことはできない。だから「死にたいと思う子供」をそのままの意味で理想的に救済することは理屈として不可能であると個人的には考えている。
もちろん、死に対して直面する、なんてことは、遅かれ早かれ、という話ではあるのだけれども、程度の差というか、「いずれ来るもの」として死を漠然と思い描くのと、「行動の目的」として主体的に死を視野に入れるのとでは、カラーが全く違う。
中学生や高校生、あるいは小学生が「死にたい」という絶望的な懇願を心から口にしてしまったのなら、たとえその原因が根本から取り除かれようともそれは解決とは呼べまい。それは傷であり折れ目であり、不可視だが確かに残るものである。それは肉体に刻まれるのではなく、歴史に刻み込まれる。



つまり何が言いたいかというと、「死にたい」という向きに対して「何だと、この事態を作ったのはどこのどいつだ」と声を荒立てることはだいたい無意味で、そんなことをしている暇があったらその子供を安らかな場所に保護して手当てを行ったほうが億倍マシなのではないか、という話。彼らには、事態そのものが収束する以上に、事態に向き合うだけの精神的な力を養う必要があるのではないかと思う。それは与えて身に付けさせるものではなく、啓蒙によって自分なりの流派を獲得してもらうしかないもので、一つの技術のようなものに見える。それがある意味では、先に期待を放棄した考える能力に該当する。



もちろんベストなのはその考えが「死にたい」に至る前に歯止めをかけることではある。それが一番健全で、問題や波乱の具合が悪い方向に転ぶ可能性が一番低い。先の通り、「死にたい」まで行ったらそのまま終わりまで直結するケースが充分に想定され得るためである。
そうでなくとも私のような性根のねじ曲がった社会不適合な人間不信者になる危険性がある。それだけは確実に避けた方が良い。こればかりは間違い無い。



一定域に達していないのなら、回復に際して難しい処理は必要無い。
子供であればなおさらである。事態の全てが彼の責任であるというケースが稀だろうから。それさえ暴くことができれば。



だからまず成されるべきはそのための「場所」の存在の確保なのだろうと思う。安らかな場所。逃げ込む場所。身内が誰ひとりいない場所が良い。それでいて安全な場所が良い。時間を有意味に使えるのが良い。無意味に使っても許されればなお良い。合法的で、文化的で、非営利的な場所が良い。どうせなら活字に触れて教養でもゲットしておけば良い。
そしてそれが確保されていることが、それを必要としている人物のところに伝わっていることが肝要であることは、もちろん言うまでも無い。






鎌倉市図書館の「件のツイート」を見て思ったことでした。





追記するかも

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2015-07-08-Wed 04:23:05 │EDIT
履歴書を取り出し自分のステイタスを”客観的に””悪くない感じに””素敵に””形式的に”書いて空欄を埋める。
そこにはいい歳こいた人間がそこそこの格好とそこそこの表情で撮った写真が張られている。
これまで過ごしてきた学生としての時間を学歴だの資格だのといった結果だけに還元して味気無い文字で記述する。
3月初頭から飛び飛びながらボールペンで日記を書き続けてきたおかげか、アナログな筆記でもだいぶマシな文字が書けるようになってきた気がする。


それで、不意に冷めた視線になって、結局、ここに書いてある輩は一体何者なのだろうかとふと思う。
自分は自分の事実を自分で自分に明らかなように書いていて、だからそこに嘘は無い。
けれども自分で書いた自分に関する言葉が自分のことではないような乖離感覚がある。


要はそれは「ハタから見た自分の姿」で、多少なり誤差というか言葉の綾こそはあれ、おおよそ間違いようのない確定的な部分だけが書かれているのであって、自分で自分の姿を正確に直接的に観測することはできないのだから自分のことなんて最初から曖昧で、それを差し当たり誤りの無いであろう事実だけの抽出で輪郭付けようとしているからどこかちぐはぐな感じになっているというか。
ずっと昔からある感覚ではあるけれども、改めて思う。自分の皮を被った自分。自分の本体はどちらだ。ずっと昔から鏡に向かうのが苦手でならなかった。そこにいるのは誰だ。自分というのは誰だ。お前のことだ。お前のことを言っている。お前は誰だ。何者だ。
端的に気持ちが悪い。


履歴書1枚、こんなもので何が分かるものかと、思っているし、思っているであろう相手と話ができたら良いのにと思っている。
話をして、自分の弱さを全て暴いた上でそのダメさ加減をさえ許容してくれるなんていう都合の良い話があったら生きるのが楽になるのにと思っている。
根本動機は怠惰だと思う。だからこれはごく都合の良い話。都合の良い話はどこかで帳尻合わせが要るから結局どこかで面倒になることを知っている。私が履歴書をそこそこ丁寧に書くのはそういう意味でちょっとした皮肉めいて見えた。

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プロフィール
HN:
赤鯖
年齢:
32
性別:
非公開
誕生日:
1991/10/06
職業:
大学生
自己紹介:
自分のためでない、他人のためのコミュニケーションを心掛けたら、孤立した。
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