「地図上に描かれた一本の道を私が目で辿る場合には、道を引き返すことや、その道が所々で分岐していないかどうかを探ることを妨げるものは何もない。しかし、時間は辿り直される線ではない。なるほど、時間がひとたび流れ去ったなら、われわれはその継起的諸瞬間を互いに外在的なものとして表象し、かくして空間を横切る一本の線に思い描く権利を有する。けれども、この線によって象徴されるのが流れつつある時間ではなく、流れ去った時間であることに変わりはないだろう。これこそ自由意志の擁護者と敵対者が等しく忘却している点である。」(ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論』合田・平井訳)
てきとうに本をめくっていたらたまたま目につきました。
自由意志云々についてはまたともかくとして、時間を一本の線に例えた際に犯しがちな誤謬については、個人的にかなり判明な納得をもたらすところがあり。
若者の自殺が咎められるのは彼にその先の未来があるからである、というような言い方をするような立場がどれほど強いかは知りませんが、こんなことを言われる際には、やはり時間が未来方向に向かって既に舗装されているような印象を受けてしまいます。
長いこと得体の知れない違和感を覚えていたのですが、ようやく正体を掴んだ心地です。要するに、1秒先だって私たちは生きていることの確実性を確証できないのに、どうしてそんなに未来のことを前提のように考えられるのだろうかと。
自分が努力のできない性格であることと、自分が打算を嫌うこととがおよそ一致することにも同時に気付かされました。やっぱり未来が当たり前のように訪れると信じ切っている様が苦手なのだと思います。
予定を立てるのも苦手ですし、スケジュール管理の杜撰さでどれほど迷惑をもたらしてきたか知れません。しかしやはり先を見る行動というのが苦手です。
ところが一方で「企投」については違和感なく受容できている自分にも気付きました。
これは自分が死ぬ存在であるということを理解し自身の生命の限界を意識しながら行為するという意味であるのですが、未来を見据えているようでありながら、その実たんに「いいかお前は死ぬんだからな」と言っているのであり、それがいついつであるのだからそれまでにこうこうこうしておくべし、とは特に言っているわけでもなし。
時間的猶予は保証されていないといえます。ハイデガーさんこわい。
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結局何が言いたいかといって、人生の岐路に立つとき、それが今後のン十年に関わる巨大な選択・判断であるのだ、と思うとどうにも話が大きくなりすぎてきて困惑してしまいそうなものですが、たんにそれが眼前にある問題であるという事実ばかりを見遣ってみれば、少なくとも余計な荷物が下ろされて案外楽になるのではないでしょうかね、という話。
そもそも「人生の岐路」という表現自体が奇妙です。一瞬一瞬の間に性質の差はあるものなのでしょうか、時間空間の側にそれを置き去りにするのも無責任な気がします。モナドロジーかよって話ですが。
そういうわけで今日は一大事をひとつ終えてきました。ちかれた。
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