夏休みの思い出シリーズ。
特に本を読んだわけでも勉強したわけでもない、創作をするでも楽器を練習するでもない、ただただ怠惰で小規模な日々。
SFに浸る風を見せたのも一瞬だけ。
漠然と生きるとか死ぬとかそういうことを想像して、その途方も無さに言葉を失うほど繊細な神経は持ち合わせておらず、自分が死ぬシーンに自分は居合わせられないという当然の事実ばかり何度も再認識するに至る。
ハイデガーではないけれど、死は身近だし、距離が掴めないとはいえ必ず訪れるものだし、固有であったり確実であったりする。言ってしまえばいつ死ぬのかわからないし、個人的には1秒後の意識の持続だって何者にも保証されていないではないかというようにすら思っている。
例えば実家でお墓参りに行った時、自分が拝んだ祖父母の背面にピカピカ光る真新しいお墓ができていたことに気付く。
そのお墓にはサッカーボールの形をした石が脇にあしらわれていて、話を聞くと、父の同級生だかひとつ違い程度の方、のお子さん、のものであるとのこと。つまるところ自分とそう歳は変わらない。20歳を迎えたばかりの頃合いに亡くなったと聞く。
例えば車を運転する機会を得る。ほぼ1年ぶりの運転で、よろめき、間違い、数度事故の危険も感じた。クラクションも鳴らされた。幸いなことに身体も車体も無傷で済んだけれど。
運転席から歩道の歩行者の横を追い越していく感覚が一番慣れなかった。自分の側でこれだけ容易に相手を跳ね飛ばし轢いてしまい得るのである。また、翻って自分もまたそのように容易く接触され得るのである。どうしてこういったある種無茶が制御されていられるのだろうかと疑問ですらあった。それを成しているのはひとえに、人を害してはならないという意識と道路交通法による罰則の存在なのではないか。道徳の力、法の威力は偉大であると思った。
車とは違うにしてもこの頃似たような違和感を電車にも覚える。どうしてあれらは人が飛び降りずに済んでいるのだろうとたびたび以前より気になってはいたのだけれども。
簡単な話である、危険予測である、列車が来るところに飛び込んでしまってダメージを負うのは必然だし痛いのは嫌だし他人に迷惑を与えることは避けるべきである、という予測が簡単に瞬時に導き出されるから、健常者はプラットフォームから足を踏み外すことが無い。
ところで私は、そのような「当然」「そうである」が大の苦手で、自殺未遂を擁護するわけではないが、またもっと頻繁に接触事故が起こるべしなどとのたまうつもりも毛頭無いが、しかし、そういった飛び込みのような事態を全くあり得ない事態として頭から除外してしまうことに対して、それはいかがなものであろうか、と思ってしまう。
今夏、家族で旅行に行った先にひとつの橋があった。
渓谷にかかる小さい細いしかし高い橋であり、直下には沢が流れていた。
その欄干に添えられていた花束の意味が、私には測りかねた。
なんだかんだで自殺を図ったことは無い。ありそうで無い。体質上自傷には慣れているがリストカット経験は無い。引き籠るどころか保健室登校をする度胸すら無かった人間にそんな真似はどうせできないのだろうとは思う。生傷の回復速度だけは異様に速い。
死んでしまうような心地、というものと、死そのものとはワケが違うにしても、自分は随分とのうのうと生きているものである。
今夏唯一読んだ本が神林の『死して咲く花、実のある夢』だったりするのは、ここまで来るとどこか暗示めいて見える。
死後の世界は信じていないけれど、生前の情報を全て白紙にされて意識が蘇るのであれば、この世の全ての「あなた」が「わたし」にもなり得るのではと妄想してみたりもする。
個々人の意識が一つの大きなものに還元されるのであれば、それはむしろ『ハーモニー』寄りだよなあという気もする。あれだってほとんど死んでるようなものでは。
いわゆる自分が生きる意味のようなものが、ただ営利的なものに置き換えられるようであれば、大した意味は無いよな、と、なんとなく思う。
生きる意味はリアルタイムに見出されず、後になってから誰かが、その者の生きた意味を与えるに過ぎないのかもしれない。
私が生きている意味と死んだ際の意味を、無意識のうちに天秤にかけて、そして無意識のうちに死を遠ざけているだけなのかもしれないと考えると、少し恐ろしい。
自己とか自我とかいう話を中心にしている身としてそんな感じのことを考えていたりしました。
ぶっちゃけなんも考えてない。
[0回]
PR