夏休みの思い出シリーズ。
私の実家があるのは小さな町で、政令指定都市の都会が途切れてこれから田舎に切り替わりますという境界に位置するようなベッドタウン的エリアである。
というかド田舎である。
地平線は概ね360度全て山か森だし、小学校の前には木々に覆われて日中でも薄暗くアホみたいに長く曲がりくねった坂があるし、リスが出ればタヌキも出る、お地蔵さんの隣に野菜が置いてあって無人で売っていたりするような。
バスや自転車を使えば容易に街中まで行くことができる立地であるとはいえ、できる限りのことは生活圏内で済ませてしまいたいものだった。
私の街にはもともと3軒の本屋があったが、2つは私が中学生のころに閉店してしまった。
旧街道沿い、母校の中学のすぐ隣にあるツタヤだけが残っていた。
そのツタヤが閉店したことを今夏の帰省で知った。
原因と呼べるほどの立派なロジックが働いていたのかどうかはわからない。不況の煽りだの出版界全体の慢性的な業績不振だのCDが買われなくなっただのいくらでもさんざん言われている。
実際それで書店が潰れていくのを何度か目の当たりにしてきた。地元の田舎だけでなく、東京であってすら、小さな本屋さんが100均に塗り替えられていく光景を見た。立ち行かない店は持続不可能であるなんて当然のことでしかない。本屋に限った話ですらない。私が東京の一角に住み着いてこの5年で3軒ほど商店街のシャッターが下りた。
それでもやはり意外だったし、遣る瀬無いような、寂しいような、何とも言えない気分にさせられた。
店舗としてはなかなか大きかったのである。まして天下のツタヤである。地域住民がどこかに足を伸ばすことなく雑誌や小説を買うとしたら他に場所は無い。
小学校5年生で転校して、以来高校を卒業するまで、何度も通った場所である。どこか戦友を亡くしたような心地がした。
「町の本屋さん」では、もはややって行けないのだろうか。
例えば2011年に集英社がワンピース60巻を一斉重版した際に、それほどの量を店頭に並べなくてはならないことが大きな圧迫となって小さな書店がいくつも潰れたという話を聞いたことがある。
流通だ経済だ、マーケティングだ何だかんだとあれこれ挙げたところで、小さな町の書店に何がフィードバックされてくるかなどと、どこまで問題視されることか。
この夏、全国の小中学生を対象に学力調査のようなものが行われたと、家族旅行の帰り道で聞いたラジオのニュースで報道していた。
いわく、我らが静岡県は国語分野に関して全国平均を下回っていたのだと。
「当たり前だ、本を読まないんだから」
と、運転しながら父が言っていた。高卒で技術屋の職に就く同期も多いような地域である。全体的に理系の気があるが、それはもっぱらロジックと無縁に振るわれる。
「だから本屋も潰れるんだ」
という推察はあながち間違っていないと思った。
小中高とさほどの小遣いももらわなかった私にとっては、1冊の本もその都度大きな買い物だった。大したものは買っていないにしてもいちいちよく覚えている。あの店で買ったのはほとんどライトノベルか漫画の単行本で、時雨沢恵一やハセガワケイスケにハマった時は読み終わるごとに買いに行った。ガンガンにハマった時は土塚系作品を揃えたし、母の誕生日や妹の誕生日に可愛い本を買ったこともあった。初めてロッキンオンジャパンを読んだときは自分はこれをこそ望んでいたのだと思ったし、弟が両親に内緒で買って2人で遊んでいたゲームの攻略本をこれまたこっそりと買ってきたこともあった。ブレイドやガンガンが立ち読みできる稀有なスポットだった。カードゲームもCDも買った。一番の掘り出し物はメレンゲの「カメレオン」のシングルだった。中学の友達がその店でデュエマのパックを万引きしただのどうだのと騒がれていたこともあった。
あの店で買ったBee Noteにはまだ1文字も書いていない。
よく覚えている。
自分はさほどの読書家でもないので年に数度しか本屋でモノを買うことがない。よってこういった件に対して何事も言う権利は無いのかもしれない。
私はあの店を一生懸命維持したかったというわけではないのだろうと思う。
ただ寂しいのである。
この記事タイトル、「色をつける」の変換に少し迷いました。
普通に考えれば「色を付ける」だし実際こちらが正しいようなのですが、「着色」という言葉から「色を着ける」ともとれる。
色を、事物のもっとも表面を覆っているテクスチャのようなものとして捉えるならば、あたかも「着」ているようであるということができるのかもしれない。
と、こんなことを考えるような人もどんどんいなくなっていくのだろうか。
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