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2012-06-15-Fri 06:37:15 │EDIT
うそつきめ。


誰かが「私はうそつきではない」と言ったとき、それを嘘だと証明する手段は無い。
誰かが「私はうそつきなのです」と言ったとき、それを嘘だと証明する手段は無い。
自分から示される言葉の、なんと力の弱いこと。


クルト・ゲーデルにいわく不完全性定理。
それで、自分のことを自分では論理的に証明できないと、論理的に証明して、何がどうなったのか。
それから先のことは誰か考えたのだろうかとふと思ったりする。
調べていないので知らないけれど。


私はなんだか疲れたのです。
自分が誰のことも信じていないから誰からも信じてもらえないのだろうかと思う。
そもそも信じるとは何だろう?
講談社現代新書の『現代哲学事典』に載っている「信仰」の項目とは鳥渡違うような気がする。


信じるとは考える。
考えるとは疑う。
ゆえに。
信じるとは疑う。


不慮の事故か何かで死にたいと思う。
そのくせして今夜も徹夜で起きている。
誰かの責任で殺されたいと思うくせに生きることを諦めている。


人間そう簡単には死なないと思う。
信じ、考え、疑うことをやめたときが思想の死亡。
物理的な肉体の消滅というならあっけないものなのでしょうが。


自分ということを考えれば他人ということが思い当たる。
信じるということを考えれば疑うということに思い至る。
生きるということを考えれば死ぬということを思いつく。
だから何も考えなくなった瞬間が数直線のゼロで、絶対値のゼロなのだと思う。


自分で自分の言葉を信じているという人の意味がわかりません。
私は自分の言葉を信じられません。
信じられないという言葉を信じています。



P, but I don't believe that P.



自分の言葉の意味がわからない。
意味がわからないという言葉の意味がわかるのに。
つまり私は私を信じていない。
ただ私が考えている。



考えている私は見えない。
見える私は背後にそれを感じている。
見える私とは見える世界のことである。
私は世界である。



世界を神とみなす考え方や、一者が己を見ることで分裂するとする神秘主義のことがわかる気がする。
それで一体私は何をわかったのだろう。
何のことをわかったら、それはつまり何のことをわかったのだろう。
あなたのことをわかったのだという言葉は、つまりあなたのことをわかったのだというトートロジーにしかならない。



嘘とは何だろう。
事実とは何だろう。
誰が基準を定めたのか、誰が度合いを決めたのか。
私は常に誠実であり続ける嘘だ。



嘘と矛盾は違う。
そしてそれらは形式、見え方の話をしているのだから、内容や意図は関係が無い。
嘘はいつから嘘になるだろう。
生まれたときから嘘だというなら私はもう死んでいる。



うそつき。
悪い奴は全員死ねと誰かが願ってそれが叶ってきっと人類は滅ぶ。
人間は死ぬが嘘は死なない。
だから私は死なない。





けれどそれを私は知らない。

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2012-05-02-Wed 03:03:01 │EDIT
自分がどんどん冷めた人間になってきているような気がする。




いいことである。






もしかして:ナチュラルハイ




乱費癖だけは治さないとリアルに死にかねない。

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2012-04-30-Mon 23:48:06 │EDIT
考えてみれば4月は一回も更新していなかったという。
途中まで書いて諦めた免許本試験の日記は非公開で残してあったりもしますが。


神保町本屋街に行ってきました。
以下、メモ。


・場所・私と汝 他六篇

・ユリイカ 2011年11月号

・ニーチェ 運命を味方にする力

・ジェンダーで学ぶ社会学

・社会学講義 [感情論の視点]

・たまたま地上にぼくは生まれた

・バナナ剥きには最適の日々


当初の目的だった岩波のエピクロスは発見できず。




2周年のトップ絵を描きたいとともにサイトを改装したいと思った。
思ってみただけ。

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2012-02-11-Sat 14:26:29 │EDIT
本を読む上で栞とは、必要不可欠というわけでこそありませんが、あると何かと役に立つものです。


栞が必要ない場合というのは、常にキリが良いところまで読んでしまうなどして「前回はここまで読んだ」ということをはっきりと思い出すことができるひと。
文章を見れば「ここまでは読んだかな/ここから先は読んでいないな」ということは連想的にわかることがあります。あまりうかつにやってしまうと何行か何ページか飛ばしかねませんが……

断片的に、少しのシーンごとに(少しの生活シーン、あるいは小説のシーンごとに)読む場合、栞はとても役立つものです。
本の本体に(変な日本語……)、ひものような栞(スピン)が付属しているものもあります。特に新潮文庫にはこのスピンがたいてい、ついています。
スピンは本棚に本を収納したときに背表紙の側にだらりと垂れていたりすると見栄えしません。特に、何冊も並べるひとはしっかりしまっておかないと大変な様子になります。私の読書家な知人の家に行ったときは、大きな本棚の新潮文庫を並べた一列にスピンがぞわぞわしており、たいそう雑然とした印象を受けました。
読んでいない場合は表紙か背表紙の遊び紙あたりに挟んでおくとよいでしょう。読み途中の本と区別する意味でも、栞は本文中ではないところに収めておくべきです(ただし、そうしてしまうとふつうの栞では抜けやすくなってしまう、というのも事実です。適宜適当なところに挟みましょう)。

栞は、いうなればセーブポイントのようなものです。
「前回はここまで」ということを示し、それは同時に、「次はここから」という出発点を示してもいます。
その本の読書ということにおいて、現在へ向かう過去と未来へ向かう現在の、時間的な中継を担っているということです。

また、栞そのものに装飾がされたものもあります。神保町の岩波ブックセンターのレジ横でもらった、明るい色のひもが結ばれた栞などは印象的でした。
あるいは、金属の棒状の栞で、先端にねずみがついていて、本に挟むとその本の上にねずみが乗っているように見える……というようなユーモラスなものもあります。
私がこれまでに見た中でもっとも気に入っているのは、マザー・グースの「ヘイ、ディドル、ディドル」の一節とそのイラストが描かれた栞です。「えっさか ほいさ ねこにバイオリン めうしがつきをとびこえた こいぬはそれみておおわらい そこでおさらとスプーンはおさらばさ」……奥でおさらばしているおさらとスプーンがかわいい。

つまり、栞にはモノとしての価値、三次元的な価値があるということです。

実際に「ふれる」ことのできるということは電子書籍ないしは液晶画面に並ぶ文字列に対して通常の本が大きく勝っているところですが、これに並んで、あるいはこれを強くバックアップするものとして、栞の存在が挙げられるのだと思います。
「読む」という精神活動的な行為を、文字列あるいはページという物質を介して、「ふれる」ことのできる身体的な活動に変換する。
その時間経験的なものの変換を担っているのが栞ということになるのではないでしょうか。

文字列とは二次元的な画像です。ゆえに私たちは本として発行されるまでもなく、画面に映る文字列だけで文章を読みとることができます。
しかしそれは二次元的なものであるがゆえに「ふれる」ことのできないものです(iPadやスマートフォンなら、画面に触れば動かせるよ、と勘違いしている皆様、それは「動いているように見えている」ゆえに「触ったような気になっている」だけです)。
その文章を実体のある存在として世に顕現させるのが本というものであり、そうすることによってしか私たちはこの物理的な現実において文章そのものに「ふれる」ことはできないのだと思います。


栞について書いていたはずが、いつの間にか電子書籍批判になってしまいました。


栞はさりげない存在です。
しかし、読書という行為を経験として身の内に還元したい場合には、そのさりげなさが、その一助となることでしょう。



ところで、読みかけの本が大量にあるせいで栞不足が深刻なのですが……(自業自得)

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2012-02-10-Fri 16:17:08 │EDIT
部活で読んだ作品に少年が失踪するシーンがあって、だからというわけではないですが、「いなくなる」とはどうなることなのか、考えてみたくなった。


いつだったか、駅前商店街の本屋でハウツー失踪みたいな本を見つけて、結局のところ本気で失踪するためには戸籍の消滅を伴い家族も友人も擲ってどこかへ行くということをしなければならないらしいのです。
もう事実上の死亡。
敵を全て失う代わりに、味方も、自分を取り巻く何もかもをも同時に失う。

少年期の家出願望はそれなりにポピュラーなものだと思う。
ここではないどこかへ、という旅人的な意志ほどかっこよいものではないけれど、一人旅をする楽しみと操作は一緒のようなもの。
私の友人にもプチ家出まがいをしたことがあると話した人がいますし、私の弟も大昔に家を飛び出たことがありました。どちらも夕飯までには帰宅していますが。

ズッコケ三人組にも家出する話があって、幼い頃に読んで、それは確かけっこう大移動をしていたのだと思う。
当時は自分にはこんなことはできないだろうと思った。
今読んだらはじめてのおつかい程度にしか見れないのかもしれないと思う。

一方で自殺願望と同一とはできない。包含関係にもない。重なる部分はあるだろうけれど。
死にたいというのと逃げたいというのとはまた意味が違っていて、現代社会における「死にたい」若者の多くは「逃げたい」だけなのではないかというこれは経験上の個人的な意見。
思えばゆとりというのは困難を回避することですからね。ハードルを下げるというよりはハードルの無い道を用意する感じという気がする。

しかし表面的、結果的、物理的に見れば、死亡と失踪は同じ。
それは周囲の人格の精神にとってひとりの個人が消滅することによる。
逆に、失踪を死亡と差異化させるところのものは、行為する主体の精神にとってのみ、元の個人は存続して観測されるということ。
方法的独我論では自分以外の周囲一切が「消滅」するということになるのですが、それでも「自分」は残る。

唯一残されるのが主体ということで、ある意味では「失踪」は何よりも個人を強く規定するものなのかもしれない。
ただし同時に自分に絡む様々な諸関係も同時に失っているため、「強くてニューゲーム」どころか「知識だけ引き継いでステータスリセットでニューゲーム」でもない。
良くて「同ジャンルの別のゲームを別ハードでスタート」程度。
「ゲームを破壊して作り直す」くらいでしょうか。
もちろんたかだかゲームになぞらえてよい話ではないのですが。

自分が消えたいと思うのはどのようなときなのだろうか? ということを考えてみて、その思い当たる理由にさらになお「自分自身でそれを見たくない/関与したくない」心理があると自殺までいくのでしょうか。
「生きたい死にたいは精神行動」というのは持論ですが、理論的に死を選択する場合ももちろんあるのだと思う。


哲学的に、「有る」「無い」はパルメニデスが既に考えていたりして大きなテーマなのですが、最近はどうも「生死」方面に向かいすぎではないのかなあというイメージがあったりします。
とりあえずサルトルの「存在と無」とハイデガーの「存在と時間」を読んでから出直してまいります。



追記
「失踪超入門」
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4757219024
おそらくこの本だったはず。

「ズッコケ家出大旅行」
http://www.amazon.co.jp/dp/4591066428
あらすじだけちょっと見るとおもしろそうに思えてくる。

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HN:
赤鯖
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誕生日:
1991/10/06
職業:
大学生
自己紹介:
自分のためでない、他人のためのコミュニケーションを心掛けたら、孤立した。
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