最近生きることに消極的になってきた。
死にたいとは思わないけれど特にこれといって生きている必要性も無いのでないの、と。
無気力とか燃え尽きとかそういう言葉で捉えられる症状ではないはずだと思う。
ご飯はおいしいし睡眠は心地良いし音楽や文章を楽しむこともぼちぼちできている。
生活に嫌気が差した感は無い。
お金は無いし部屋は寒いし人間関係も結べていないけれど、まあそういうこともあるだろうな、と思うし、今に始まったことでもないよな、と納得(妥協?)できている。
原因の無い鬱というのは案外奇妙なもので、こっちがむしろ本質なんじゃないかと思う。
冷めた狂気。
なんというか、誤解を恐れずに言えば、確かにこういう精神状態だったら、例えば人を刺したり轢いたりしてもそれが何か?みたいなことを口走りかねないだろうなと思う。
もちろんそんなことはしないわけですが、それを悪いことと思わずにする悪というのが本当に悪なのかどうかという話もありまして。
麻痺しているだけなのだろうなとは思います。
少し一人でいすぎた。
もしくは睡眠不足かもしれない。
自虐という行為にマゾヒズムとサディズムの両方を見出すことができるということに中学のころ気付いてから、私の中にはいつも二つの視点が潜んでいるような気がする。
それらは互いに互いを打ち消し合って何も残さない。
カウンター的なアイデンティティ以外に何か拠り所があったらよかったのにねと思わないでもない。
『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』ラストの先生のセリフ「お前生き残る気あったのか」に対する返答が必ずしもイエスと言い切れない日常でありますがまあ死にたいとかそういう方向にはとりあえず向いていない。
ただ最近は惰性でやりたいことだけやって時間を浪費しているような日々なので、将来的に身内に迷惑をかけることにはなるのかもしれないと覚悟しつつあります。
ニートは養ってくれる家族に罪悪感を感じないのか、という世間一般の憤慨が、何か違って聞こえてくるようになってきた。
ちなみに躁鬱の診断書は貰っていませんが、自覚がある時点で大差無いはずです。
無闇にお医者様の手間と自分のお金を使うまでもない。
そういう病気の証明はある種の甘えにつながりかねないという話をよく考えたこともあった。
精神病の証書は不精の免罪符では決してあり得ない。
恋愛や結婚に対して「必要無い」「面倒」という回答が以前よりも声高になってきた気がする。
例えそれが負け惜しみ的な物言いであろうとも。
けれどその理屈をどうして人生そのものに当てはめられない道理があるだろう?
もし自分が死んだら面倒臭がったりうざがったりもしかしたら悲しむ人がいるかもしれないと生意気にも思っているからとりあえず生きてみたりしています。
世界の誰もに死ねと言われなければ自殺ができない世の中では、まあ、ないとは思うのですが。
思考停止的に目の前の課題を終わらせろというのはわかっていながら、目の前の課題というのがまさに考えることだったりする。
何も考えつかない自分に絶望して鬱に陥るとかそういうわかりやすい話なら楽なのに、何も考えつかない自分に対して絶望すら抱けなくなってしまったから、止まった。
ニヒリズムについて考えるいい機会だと考えることにします。
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