演習で見た映画でした。
ゲイバーのママだった人物「卑弥呼」が作ったゲイのための老人ホーム「メゾン・ド・ヒミコ」。数人のゲイたちがそこで卑弥呼とともに穏やかに暮らしている。
しかし卑弥呼は末期ガンに侵されていた。彼はホームに簡易的に用意された医療機器の中で死期を待っていた。
一方卑弥呼の娘、沙織は、かつて自分と母と仕事を捨ててゲイの道に進んだ父親のことを許せずにいた。母の死後に残された借金を返済するため、彼女は事務仕事に加えてコンビニの夜勤までこなし、風俗嬢のアルバイトまで検討し出す始末だった。
そんな沙織のもとに表れた春彦という男性。彼は「メゾン・ド・ヒミコ」に住まい、卑弥呼を愛する若者だった。
死を前にした卑弥呼と、その娘の沙織、この二人の関係を修復したいと考える春彦は、「高額バイト」という名目で、沙織を手伝いとしてホームに招待する。
沙織は父親が堕ちたゲイの世界を嫌悪し忌避していたが……
というお話。
以下、(ディスカッションの内容も含めた)雑感。
性的マイノリティとしての「ゲイ」の描き方は、単調ながらひとまず工夫されていて、ホームの老人たちはそれぞれ趣向が異なるキャラクタライズを施されている。「ゲイ」という言葉で大雑把にくくってはいるもののその内容には相当な幅があり、そのグラデーションは再現されていたようでした。
わかりにくい方は「オネエ」と「ガチムチ」の違いを想像してもらえればと思います。主に主体の性自認という意味で方向は真逆ですが、男性同性愛という意味では等しい存在です。
わかりやすく露骨だったのは服装、色合い、そういった見た目について。
「やりすぎな」化粧をするゲイはもとより、ホームの住人達は全体的に明るい見た目であり、それと対照的に、主人公である沙織はおとなしい控えめな格好になっている。
どことなくチープな印象を受けはした一方で、それがかえってホームの中での(唯一の女性、という意味で)「異物」にカウントされる沙織をその場に馴染ませていたようにも思える。
派手やか、かわいらしい服装の女性があのような空間にいたら、ゲイたちの存在はいくらか、滑稽にさえ見えてしまうのではないでしょうか。
最終的に行き着くところがよく見渡せなかったという印象でした。
最初は長くとどまることさえ嫌がっていた沙織が最後には住人達と談笑できるまでになっていた、という構図だけを見れば、特異な人々に対して心を開く図、というハートフルストーリーめいた展開を読みとれるのですが、それではゲイという性的嗜好はその特異さだけを利用されたことになってしまう。
ゲイっていうとみんなろくな印象持たないかもしれないけど実はこんなにふつーの人なんですよ! というファンタジー的なメッセージだったのでしょうか。映画ドラえもん的な、異文化交流。
しかし、その異質さが立ち現われるためには、どうしてもそれをマイノリティに追いやる「ノンケ」のマジョリティが描かれなくてはならない。今作ではそれは直接的にはほとんど対面しておらず(数少ない相対シーンもダンスホールというサンクチュアリ的空間で行われていたために説得力が薄い)、ゲイたちの日常はホームにおける「当然」でしかない。
もしもその対立する価値観、「異性愛者」という思考軸の存在をメタ的に視聴者に委ねているとするならば、メゾン・ド・ヒミコのゲイたちはただのコメディアンとそう変わるところがありません。
要するにゲイたちのゲイであることを象徴する要素があまりにも不足している。
男性同性愛でなくても、性自認が女性寄りであるだけだったり、単に女装好き・コスプレ好きなTV=トランス・ヴェスタイトに属する人物だっている。
性交した女性を醜いと語るから、睾丸切除手術をしたから、けばけばしい化粧をするから、言葉遣いやしぐさが女性的だから、女性が着るような服に憧れるから、という、どの理由も、結局は婉曲的でしかなく、真に「ゲイ」=「男性同性愛者」を意味するものではないのです。
ほとんど唯一といえる肉体的シーンは春彦が卑弥呼に迫る箇所のみといえるでしょうか。
それにしてもクローズアップされているのは春彦の「愛を求める」気持ち、孤独な感情でしかない。
春彦がホームのパトロンに連れて行かれ「食われる」のも事後語りでしかなく、物語に描かれてはいない。
それよりも、最初いたずら・冷やかしばかりだった中学生が春彦に一括されるシーン。
もしもあれが「惚れた」契機であるとするならば、正しくゲイというものを描けているのはあれくらいではないか、と思います。
どことなくBL語りの様相を呈してきたな……
男性同士のベッドシーンを映せとはもちろん言いません。どんなAVだ。
しかしそれにしても、「ゲイ」というのがあくまでいち性質のカテゴリでしかなく、あのメンバーをあの場所に引き留めるだけの理由にしかなっていないような気がしたのはもったいないというか、本質的でないというか。
また性的関係の場としてもう一カ所用意されている、沙織の勤務先「細川塗装」。
こちらもこちらであまりにステレオタイプで表面的な異性愛主義的空間でしたが、結局霧消してしまったというか、要するに専務は女癖が悪いんだな、というにとどまってしまったのではないかな、というところ。
ゲイたちとの対立があるわけでもまして和解があるわけでもなく、互いに独立的であり、その両方を行き来する沙織だけにスポットが当てられる。
春彦とも専務とも肉体的接触を持ち、その結果として彼女に起きる葛藤というのは、あくまでも彼女の個人的な問題に過ぎないのではないか、というところ。吐いた暴言や家族の境遇、言葉の応酬を踏まえなかったら、そもそも葛藤は起きたのか? 片方に寄りかかるだけではなかったのか?
卑弥呼という存在が沙織にとってあまりに特殊すぎ、重大すぎ、メッセージを覆い隠さんばかりです。
人の死、命、という巨大なファクターもあるのですが、どうしても目先のジェンダー論に目が行ってしまいました。
老いた老人がゲイであり、若い「普通の」中学生たちが綺麗に対立する位置に置かれたのはわかりやすかったかなという程度であり。
卑弥呼のキャラクターについても、ターバンを被るような不思議な格好からして神めかされているというのか、どうしようもない絶対的位置にいすぎたのではないかというところ。
彼にまつわる具体的なエピソードが無さすぎるというか、あるにはあるにせよすべて伝聞であり、要するに本編では特に何もしていない。
結局あの人は何だったの? というか。
批判的に色々と書き並べましたが、ゲイという要素に関して全体的に論点先取な感じが強かったというだけであり、ストーリーの展開や表現はスムーズに行われていたのではないか、と思いました。
中にはベッドシーンの分割的なカメラワークが気に入らないと仰られる方もいらっしゃいましたが……
主演オダギリジョー・柴崎コウというだけの話題性で見た人は多かったのではないかというところ。
監督や脚本が少しそのミーハーさに惹かれすぎてしまったというか、なんとなく小物っぽくなってしまったのはキャスティングの影響もあるのでないかな、とか……
とはいえ個人的にオダギリジョーの飄々とした風体は、一般におけるゲイというもののイメージを塗り替えるには悪くなかったのではないかな、と思いました。フランクで馴染みやすかった一方、もっと渋い演技でもよかったかな、とも。
あまり関係ないことですが音楽が細野晴臣さんだったのは大きかったと思います。
ええと、音楽が良かったです(小学生並の感想)
映画評論を1200字くらいでまとめよという課題が提出されました。
誰か映画評論の書き方を教えてください……
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