犬のするマーキングのような行為は人間においてより顕著に見られる場合があるのだろうなと思う。
人間の場合は道具を使うことができまた事物を所有することができるわけであって動物のように排泄や分泌を利用することがないというだけの話。
所有品などの設置によってここは自分のテリトリーであると暗に示す様子は権力構造のようでもある。
例えば特定の職業における制服というものはそういった意味において二重に役割を持っている。
すなわち、企業が制服を「与える」ことで社員を領域内に囲い込み、社員は企業内において一定の場所を「与えられ」それを占める。
最低限この部分は自分のものである、領地侵犯はご免蒙りたい、という言い分が成立する。
この意識は所謂「場所取り」というか、椅子に荷物だけ置いてその席を確保しておくような行為にもつながっていくと思う。
自分のものでない、他人の所有物というだけでそれに触れることは憚られ、なんだこれは邪魔だとどかしてしまうことができなくなってしまう。
それは多くの場合周囲の目による(フーコー的な)相互監視の状況がそうさせるのだろうけれども、おそらく誰の見ていないところでも道徳的にそれを躊躇わせるような判断をする人は少なくないはず。
しかしもちろんこれでは「先にやった奴の勝ち」であり、最初にインドシナ大陸に着いたのであると宣言してしまえばそこにいた原住民たちを排斥することにもなり、誰のものでもない空き地で俺様のコンサートだと言ってしまって支配するような暴力的構造が見え隠れ。
これに対抗する意見ももちろんいくらでも提出できるがそれはそこに設置される意見ないし所有品の質による、要するに自分の布団まで持ち込むようなことをすれば当然斥けられるに決まっているが本や小物、落書きなどそれがそこにある程度のことでは支障が無いようなものでは簡単に看過されてしまう。
見過ごしている以上はそれを受容していることとほとんどイコールであり、彼のマーキングは成功している。
しかしそれが必ずしも認められるとは私には思えない。
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