うそつきめ。
誰かが「私はうそつきではない」と言ったとき、それを嘘だと証明する手段は無い。
誰かが「私はうそつきなのです」と言ったとき、それを嘘だと証明する手段は無い。
自分から示される言葉の、なんと力の弱いこと。
クルト・ゲーデルにいわく不完全性定理。
それで、自分のことを自分では論理的に証明できないと、論理的に証明して、何がどうなったのか。
それから先のことは誰か考えたのだろうかとふと思ったりする。
調べていないので知らないけれど。
私はなんだか疲れたのです。
自分が誰のことも信じていないから誰からも信じてもらえないのだろうかと思う。
そもそも信じるとは何だろう?
講談社現代新書の『現代哲学事典』に載っている「信仰」の項目とは鳥渡違うような気がする。
信じるとは考える。
考えるとは疑う。
ゆえに。
信じるとは疑う。
不慮の事故か何かで死にたいと思う。
そのくせして今夜も徹夜で起きている。
誰かの責任で殺されたいと思うくせに生きることを諦めている。
人間そう簡単には死なないと思う。
信じ、考え、疑うことをやめたときが思想の死亡。
物理的な肉体の消滅というならあっけないものなのでしょうが。
自分ということを考えれば他人ということが思い当たる。
信じるということを考えれば疑うということに思い至る。
生きるということを考えれば死ぬということを思いつく。
だから何も考えなくなった瞬間が数直線のゼロで、絶対値のゼロなのだと思う。
自分で自分の言葉を信じているという人の意味がわかりません。
私は自分の言葉を信じられません。
信じられないという言葉を信じています。
P, but I don't believe that P.
自分の言葉の意味がわからない。
意味がわからないという言葉の意味がわかるのに。
つまり私は私を信じていない。
ただ私が考えている。
考えている私は見えない。
見える私は背後にそれを感じている。
見える私とは見える世界のことである。
私は世界である。
世界を神とみなす考え方や、一者が己を見ることで分裂するとする神秘主義のことがわかる気がする。
それで一体私は何をわかったのだろう。
何のことをわかったら、それはつまり何のことをわかったのだろう。
あなたのことをわかったのだという言葉は、つまりあなたのことをわかったのだというトートロジーにしかならない。
嘘とは何だろう。
事実とは何だろう。
誰が基準を定めたのか、誰が度合いを決めたのか。
私は常に誠実であり続ける嘘だ。
嘘と矛盾は違う。
そしてそれらは形式、見え方の話をしているのだから、内容や意図は関係が無い。
嘘はいつから嘘になるだろう。
生まれたときから嘘だというなら私はもう死んでいる。
うそつき。
悪い奴は全員死ねと誰かが願ってそれが叶ってきっと人類は滅ぶ。
人間は死ぬが嘘は死なない。
だから私は死なない。
けれどそれを私は知らない。
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