部活で読んだ作品に少年が失踪するシーンがあって、だからというわけではないですが、「いなくなる」とはどうなることなのか、考えてみたくなった。
いつだったか、駅前商店街の本屋でハウツー失踪みたいな本を見つけて、結局のところ本気で失踪するためには戸籍の消滅を伴い家族も友人も擲ってどこかへ行くということをしなければならないらしいのです。
もう事実上の死亡。
敵を全て失う代わりに、味方も、自分を取り巻く何もかもをも同時に失う。
少年期の家出願望はそれなりにポピュラーなものだと思う。
ここではないどこかへ、という旅人的な意志ほどかっこよいものではないけれど、一人旅をする楽しみと操作は一緒のようなもの。
私の友人にもプチ家出まがいをしたことがあると話した人がいますし、私の弟も大昔に家を飛び出たことがありました。どちらも夕飯までには帰宅していますが。
ズッコケ三人組にも家出する話があって、幼い頃に読んで、それは確かけっこう大移動をしていたのだと思う。
当時は自分にはこんなことはできないだろうと思った。
今読んだらはじめてのおつかい程度にしか見れないのかもしれないと思う。
一方で自殺願望と同一とはできない。包含関係にもない。重なる部分はあるだろうけれど。
死にたいというのと逃げたいというのとはまた意味が違っていて、現代社会における「死にたい」若者の多くは「逃げたい」だけなのではないかというこれは経験上の個人的な意見。
思えばゆとりというのは困難を回避することですからね。ハードルを下げるというよりはハードルの無い道を用意する感じという気がする。
しかし表面的、結果的、物理的に見れば、死亡と失踪は同じ。
それは周囲の人格の精神にとってひとりの個人が消滅することによる。
逆に、失踪を死亡と差異化させるところのものは、行為する主体の精神にとってのみ、元の個人は存続して観測されるということ。
方法的独我論では自分以外の周囲一切が「消滅」するということになるのですが、それでも「自分」は残る。
唯一残されるのが主体ということで、ある意味では「失踪」は何よりも個人を強く規定するものなのかもしれない。
ただし同時に自分に絡む様々な諸関係も同時に失っているため、「強くてニューゲーム」どころか「知識だけ引き継いでステータスリセットでニューゲーム」でもない。
良くて「同ジャンルの別のゲームを別ハードでスタート」程度。
「ゲームを破壊して作り直す」くらいでしょうか。
もちろんたかだかゲームになぞらえてよい話ではないのですが。
自分が消えたいと思うのはどのようなときなのだろうか? ということを考えてみて、その思い当たる理由にさらになお「自分自身でそれを見たくない/関与したくない」心理があると自殺までいくのでしょうか。
「生きたい死にたいは精神行動」というのは持論ですが、理論的に死を選択する場合ももちろんあるのだと思う。
哲学的に、「有る」「無い」はパルメニデスが既に考えていたりして大きなテーマなのですが、最近はどうも「生死」方面に向かいすぎではないのかなあというイメージがあったりします。
とりあえずサルトルの「存在と無」とハイデガーの「存在と時間」を読んでから出直してまいります。
追記
「失踪超入門」
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4757219024
おそらくこの本だったはず。
「ズッコケ家出大旅行」
http://www.amazon.co.jp/dp/4591066428
あらすじだけちょっと見るとおもしろそうに思えてくる。
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