院生の方と人違いに遭った。
他大からやって来てくださっている先生が非常に期待を寄せていた人物は私ではなかった。
申し訳なさと至らなさと何か憤りのような不甲斐なさと、とにかく色々ショックではあった。
これから自分がどのような道に進むにせよ、例えばもし精進を選ぶのであれば、自分は○○をやっている者である、と、そういう紹介ができるほど専門的な知識や思考をアイデンティティとして獲得する必要があるのは、およそ間違いない。
それは何に関してもそうだろうと思う。
それこそ趣味に関してさえ。
きっとそういう自己形成を選ばない人も同じくらい多数あるのだろうけれど、自分ならばきっとそれが言えないことに耐えられないのだろうと思う。
○○の専門家です、という言葉は危うさも持ち合わせていますが非常に強力であると思う。
それはある意味では虎の威を借る狐と変わらない名義への依存的な状態なのかもしれないけれど。
何か一つにかけて先んじるということとその他すべてにおいて劣るということはまったく同一の内容ではないと思う。
今の自分にそれができるだろうかと思う。
つまり、あれこれと手を出しては何にも長けることができずにいる今の自分は一体どういう者であるといえるのだろう?
自己形成を余所に託すこと、例えば趣味は何である、最近読んだ本は何である、よく聴く音楽は、よく見る画家は、などといった言葉を使うことが、どこまで本質的にその人を表しているだろうか、ということは(やや僻みを含みながら)疑問ではある。
一方でその人が確かに残した功績や業績は消えるものではないし主観と客観で価値の変わる通貨でもないはずだと思う。
過去の栄光に縋るのは愚かだと知っていながらもそれを無視してその人物が測れるだろうかとも思う。
結局人間一人理解するだけでずいぶんと大変な作業。
そういう社会。
改めて、生き残れるか不安になった感じがしました。
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