弱音を吐くのにも才能が要ると思う。
自分の弱みを誰かに知られることというのは本来は避けられるべき事態である。
自分の価値づけをマイナスに持っていかれてしまうことを誘発してしまう。
プライドとプライバシーがそうさせる。
見下されるということにはプラグマティックな不利さも単純な不快さもある。
しかし見下されることが無いと確信されているならば弱音とは掌を開く行為になる。
確信されているというのはつまり、語る相手との親密さが確立している場合、あるいは弱音の程度の話。
それが一線を越えなければ白旗を上げるような行為。
端的に言って相談であり愚痴である。
コミュニケーションのカードとしてはかなり特殊なものであると思う。
弱音。
矜持を掲げる人には醜態を晒したくないという欲求や意識があり、誰しもを圧倒したいと思う人ならば常にレースで先を走っていたいと考える。
しかし自らの弱さを見せる人はより他人に近しいようにも見える。
その一方であまりにも弱みを見せ続けているといずれ許されざるラインに達して失望されてしまう。
一線を越えてしまう。
まあ要するに所謂「構ってちゃん」の構造を考えているようなものなのですが、私だって泣き寝入りを繰り返しては鬱憤を溜め込んで人前に出すまいとしていたクチであり、弱音をある程度人に共有してもらうことは単純なストレス解消の意味もあるのではないかなーと経験から思ったりします。
対人対話の難しさは何についてどこまで話すことができるかの判断の難しさ。
ショーペンハウアー的共苦とかニーチェ的同情とかそういった高尚なものじゃ断じて(略
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